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雨、二人、この瞬間

 私が籍を置く文芸部は、部を名乗ってはいるものの活動らしい活動をしていない。日々部室に赴いては本を読む。それだけ。
 ページをめくる音、時間を刻む音。耳に入ってくるのはそれくらいのもの。視界情報はというと、ひたすらに文章を追いかけまわしている。本の中の世界は逃げやしないが、絶え間なく読み進めることが、物語に浸るコツだと私は思う。現実ではない世界への没入は、私にとって幸福を実感できる事柄の一つだ。
「栞」
 そんな私を本の世界から引き戻したのは、透明感のある澄んだ声だった。静けさのなかにそのまま溶けていくような、そんな声。私は視線を声の主へ向ける。
「なあに、静乃」
「呼んだだけ、って言ったらどうする?」
 返事をした私に静乃は悪戯っぽく微笑んだ。人形のように精緻な顔立ちに少し見惚れて、「どうもしないよ」と応える。どんな返事を望んでいたのかはわからないけれど、「つまんないの」と大きめのオフィスチェアに胡坐をかいてくるくる回る。学校の空き教室には不釣り合いなそれは、いつの間にか静乃が持ち込んだらしい。
 回転していた椅子がぴた、と止まる。静乃の視線は私へと向かっている。
「紅茶飲む?」
「ううん、いらない」
 本当に本以外なかったこの部室だけれど、静乃が来るようになってからはずいぶん物が増えた。オフィスチェア以外にも電気ケトルとマグカップ、空気清浄機、ノートパソコン、二人掛けのソファ。それ以外にもお茶を淹れたり掃除をしてくれたり、整理整頓が苦手な私にとってはとてもありがたいことだ。
 しかし誰も寄り付かないような校舎の最果てとはいえ、こうも私物化してよいのだろうか。というかこの子、本当にこういう家具とかどこから見つけてきているんだろう。わざわざ家から持ってきていたりするのだろうか。そもそもソファってどうやって運んだんだろう。聞いたことはないけど、少し気になってきた。
「栞? 何で難しい顔してるの?」
 虚空を見つめて黙り込んだ私に、静乃は首をかしげている。
「こういうの、どこから持ってきたのかなって」
 ソファや空気清浄機を指さして言う私に、また悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「どこだと思う?」
「あ、そういうのいいんで」
 こういう顔をするときは大抵は教える気がないときだ。それなりに付き合いが長いからわかる。何の影響を受けているはわからないけれど、妙なところで秘密主義だ。家の事情について少しは知っているけれど、逆に言えばそれ以外のことは知らないこともある。
 静乃は「冷たいのね」と不満げに口をとがらせるけれど、あまり気にしてはいないようで「それはそうと」と話題を変えた。
「もうすぐ下校時刻よ」
「あ、もうそんな時間?」
 スマートフォンの時計を見れば確かに十八時を過ぎていて、自身がどれほど読書に没頭していたのかを実感する。最終下校時刻が十八時半だから、そろそろ帰り支度を始めたほうがいい。静乃も私が時間を忘れているのを見越して声をかけてくれたみたいだ。
「それともう一つ、残念なお知らせがあるわ」
「残念な……?」
「外、見てごらん」
 言われるがままに視線を窓の外にやれば、それはまさしく篠を突くような、と表現できる。ざあざあと、今まで耳に入らなかったのが不思議なくらいの大雨だ。こんななかで普段通り本を読んでいたのか私は。
 「わあ…」と間抜けな声を漏らした私を見て、静乃は「栞はマイペースよね」と呆れたようにため息を吐いた。窓際に置かれたソファに身体を預けて、ぼんやりと雨音に耳を傾ける私の右隣へと、同じように静乃も腰掛ける。ふわりと、柑橘系の香りがして、どきりと心臓が跳ねた。
「さっきの校内放送は聞こえていたの?」
「校内放送」
「……聞いてなかったのね」
 静乃曰く、どうやら大雨洪水警報が発令されているらしく、帰宅の際は車での送迎を家族に依頼することを推奨しているとのこと。どうしても連絡がつかない、帰る手段がない場合は、雨が弱まるまで校内に留まることを許可するとのこと。
「雨、止むかなあ」
「どうかしらね」
「もっと早く声かけてくれてもよかったのに」
「どうせ気づかないくせに」
「……ごめん」
「いいの、全然気にしてないから」
 会話が途切れる。風雨が部室の窓を揺らしていて、心なしか風も強くなっているようだ。
 私も静乃も、家族に連絡はしなかった。うちの両親はどちらも仕事が忙しいとかで十日に一回くらいしか帰宅しないし、顔を合わせる機会も滅多にない。そんな生活を長く続ければ、家族といえど関係性に罅も入る。ここ二、三日のあいだに二人とも帰ってきた痕跡があったから、しばらく家にはいないだろう。
 静乃の家には何度か遊びに行ったことがあるけれど、彼女についてはそもそも一人暮らし。家族に連絡も何もないのだ。家の事情について、深くは知らないし、詮索するつもりもない。本人から聞くところによると、裕福な家庭で両親は健在だが、離婚しないのが不思議なくらい不仲らしい。そんな環境から、静乃は逃げ出したのだ。
 「もう疲れたのよ」と、そういったときの静乃は、あきらめたような暗い瞳で、薄く笑んでいた。その時からだろうか。私は静乃に強く惹かれるようになった。境遇は違えど、どちらも冷めた家庭環境。もともと親近感を抱いていたが、より明確に静乃という存在を意識するようになった。
 だけど口下手で、人付き合いも下手な私は、ただ手を握ることしかできなかった。言いたいこと、言わなきゃいけないこと、言ってはいけないこと。言葉はいくつも浮かんでくるのに、何も言えなかった。口に出してしまうと、それはすべて違う意味になってしまいそうな気がしたから。
 あの時も、そうだ。今日みたいに雨が降っていた。静乃の話を聞いたあの日。
 私たちしかいない部屋。雨音がだんだん強くなっていくなかで、静乃も私も黙ったまま。二人きりの世界で肩を寄せ合い、お互いの手をぎゅっと握って、ただひたすらに互いの存在だけをそばに感じて──。
 不意に、右の掌に温もりが伝わる。
「……静乃?」
 呼びかけてみるも返事はない。ちら、と隣を見れば、静乃の瞳はまっすぐに私へと向けられている。指を絡められて、少し面食らったけれど私もまた、その手を強く握った。
 濃褐色の瞳が少し揺らぐ。
 ふわり、柑橘系の香りがして、唇に何かが触れる。
 それは本当にほんの一瞬だったけれど、鮮烈に、色彩豊かに記憶に刻まれた。
 呆ける私と、頬を染める静乃。雨の音が、高鳴る鼓動に打ち消されそうな気がした。
 しばらくの間は変わらない沈黙が広がっていたけれど、やがてどちらともなく吹き出して、空気が一気に弛緩する。
 一頻り笑って、静乃は私の肩にもたれかかってくる。まだほんのりと朱が差す頬をみて、私もなんだか照れ臭くなる。
 雨は依然として吹き付けていて、その勢いは少しも衰えていない。
「雨、止みそうにないわね」
「いいよ、止まなくて」
 私の心からの言葉に、静乃は「馬鹿ね」と笑った。

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