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どうして小さいことを気にしてしまうのだろう?

相変わらず、自己心理分析の記事だが、まあ、それが私の記事の基本的スタイルだから肯定してあげよう。(笑)
私の記事を読んで下さっている皆さんは、よくおわかりだろうが、私はとにかく、あれこれと考えている。
最近、思うことは、

どうして小さいことを気にしてしまうのだろう?

ということである。
だって、人生は有限なのだ。
それに私は更年期世代、平均寿命まで生きられたとしたって、今まで生きてきた分の半分ぐらいしか生きられないだろう。
あっ、そっか、私って、人生の3分の2ぐらいは生きてきちゃってるんだ。それなのに、それなのに、

どうして小さいことを気にしてしまうのだろう?

残りの人生を考えたら、こんな小さいことを気にしてしまうのは、時間の無駄だ。
もしかして、気にしてしまうのは、大小の問題ではないのかもしれない。
これは、もっと人生の指標みたいなものが原因しているのかもしれない。

私はきっと、人生の指標がないのだ。
だから、問題が小さかろうと、大きかろうと、結局は、同じように気にしているような気がする。
ということはだ、私が解決することは、問題そのものではない。
私の人生の指標、生きる指針の方だ。

やっだ~、そっち~?もう早く言ってよ~!と、自分で自分に突っ込んでも仕方ないのだが、なんとなくそんなことに気付いた次第だ。
私は、自分の人生を生きてこなかったのだ。
誰かの人生を羨ましく思い、憧れ、そんな人生にするにはどうしたらいいか?そんなことばかりを、見当違いな方法で真剣に考えていたような気がする。

それでは答えもやる気も出ないはずだ。
いや~、まったくもって、もったいない、こんな基本的なことで私は、長いこと悩んできたのだ。
それは明らかに自分を大事にしていない、むしろ、コケにしている感じすらある。

あかん、あかん、このままでは、私は自分自身を毒牙にかけているのと同じことだ。
大幅な軌道修正が必要だ。
その為にできることを考えてみた。

当たり前のことだが、とにかく好きなことをしよう。
考えることも、行動することも、とにかく好きなことをしよう。
わざわざ、思い悩まなければいけないことに、首を突っ込まないことだ。
私はどうも、好き好んで、思い悩む方へ、首を突っ込んで生きてしまった感がある。

なぜ、そんなことをしてきたのか?
おそらくだ、私は自分を知るのが怖かったのではないかと思う。
だから、人真似で、なんとなく無難に乗り切りたかったのではないかと、推測した。
この、無難に、という考えが、私を縛ってきたのではないだろうか?

無難に。。。一体、誰にそんなことを強要されたのだろう?
誰からもされていない。
確かに、親は無難を希望していた感じはするが、社会は一個人の生き方にそこまで踏み込むことはない。
犯人は私だ。(苦笑)
私が私自身に、無難に生きることを、無意識に強要して生きてしまったのだ。

な~んだ、全ては私が勝手にやってきたこと、誰かの許可なんて必要ない、自分の人生の舵取りは、私が好きなようにやって良かったのだ。



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