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多くの人が許せても自分には許せないこと、多くの人が不快に感じなくても、自分には不快に感じること

私は心が狭いのかな?と思う時がある。

人や社会に対して、多くの人が許せても自分には許せないこと、多くの人が不快に感じなくても、自分には不快に感じることがある。

そんな時、私は自分の気持ちを大事にしたのにも関わらず、何か罪悪感のようなものを感じてしまう。
そして、その感覚をずっと長いこと、引きずってしまうのだ。

日本社会に生きているから、こういう感覚になるのだろうか?
多数派の意見こそが絶対、小さなことには目くじらを立てないことが大人の証である、そう教育されてきたように感じる。

疲れる、疲れてしまう、まるで自分を否定されているようだ。
意見をすると、文句のように思われてしまう。
まるで、クレーマーのような扱いだ。

私は、仕事のスキルアップの為に、短期間、あるオンライン講座で学んだことがある。
オンライン講座なので、皆がわかるように、授業の進行(流れ)の仕方を明確にして頂かないと、授業中に戸惑うことがあった。

年齢も職歴も能力もバラバラな方の集まりの中、私としては講師にバランスを取ってほしかった。
しかし、講師は、経験と能力の高い受講生を中心に、授業を進めていた。
当然、経験と能力の足らない受講生は、急かされるか置いてかれる。
私はたまりかねて、置いてかれる状況を訴えた。
すると、講師は言った。

「若い人達に勝とうとしないで下さい。どう頑張ったってついてこれないんですから。もう年を取ったら(年寄り扱い)、頭に入ってこないんです、そういうもんなんです、それはもう、どうしようもないことなんです。それを認めて下さい。若い人達に勝とうとするから、いけないんです。」

私は、唖然とした。
私が言いたかったことは、そんなことじゃない。
どうしたらそんな話になるんだ?
まったくもって理解不能だった。
確かに私は、受講生の中では年齢が上の方ではあった。
しかし、それと能力や吸収力を一緒にするのはいかがなものか?

年齢が行けば、頭も固くなり、理解力は落ちるだろう。
しかし、努力によって、若い方との差を縮めることは可能なはずだ。
教える立場の人間が、まだ始まったばかりの講座で、いきなり受講生に言う話ではないのではないか?

短期の講座で、且つ、若い方が主の講座であった為、私以外に訴え出る人はいなかった。(私より年上の方もいたが、皆、何も言わなかった)
しかし、その後の授業の進行の仕方は少し変わった気がする。
経験と能力の差を縮める工夫が、少しはなされてきた印象だった。
とても許し難い発言をしてきた講師だったが、授業の変化には応えようと思い、私は予習復習を精一杯やった。
おかげで、かろうじてついていける状態までにはなることができた。

私はあの講座で、講師に疑問を訴えたことは後悔はしていない。
だが、訴える方が他にいなかったことが、私の中でいまだにどこか、自分は心の狭い人間なのかな?と思ったりする要因なのである。
私が訴えた後も、私より年上の方が、年齢的に難しいんですよ的なことを言われたり、そのくせ、ついてこれてないことで嫌味を言われたりしていた。
それでも、誰も最後まで、講師に訴えをすることはなかった。

日本社会は異議を唱えると、異端児扱いをされて、煙たがられるばかりだから、何も言わないことが処世術として認知されてしまってるのかもしれない。



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