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お客様インタビュー・角谷諭三郎さん(会社員) 後編

角谷
そもそもジャズに取り組もうと思ったのは、直属の上司が現役で亡くなったからです。
部下に厳しいけれど、自分にも厳しい人。仕事中に笑顔なんて見たことがなかった。葬儀場に掲げられた遺影を見て、こんなに素敵な笑顔ができる方だったんだとはじめて知りました。部下のことも、陰で大変なサポートをしてくれていたと、亡くなった後で知りました。

取引先の再建支援という特殊な仕事で、すごいストレスのかかる交渉をしていたからかもしれませんが…交渉がまとまった直後の健康診断でがんが見つかり、たった一年の闘病で他界してしまった。

私は、それまでにも一緒に仕事をした人を何人も失っていました。年上の人も年下の人もいました。会社の将来を背負って立つはずの、優秀で人柄も良い年下の人を失ったこともあります。
両親も亡くしています。私が小学校5年生の時に父が難病になり、私に「まずは自分の頭の上の蠅を追え」と言い続けていた母は癌が再発して私が高校三年生の夏に亡くなってしまいました。20代の時に父も亡くなっています。
高校の同級生も二人亡くしていますし…身近な人の死に慣れていたはずでした。
でもこの上司の死はこたえました。こんな笑顔が出来る人なのに、と思いました。
40歳過ぎたんだから自分にとって楽しいことをしないといけない…仕事以外の楽しみが必要だと思いました。
そうでないと人生つまらない。
今すぐ、楽しいことを見つけよう!

女将
商社にお勤めなさるような皆さんはリア充というか、選択肢が広いし、お金もあるし、一般人より楽しいことがいっぱいおありなのでは…というイメージがありましたが…。

角谷
人によると思います。
私は中学、高校で無我夢中で取り組んだものはありませんでした。
大学ではテントを担いで夏山を歩いたり、廃品回収のワークキャンプを一ヶ月間大阪で主催したりいろいろな体験をしましたが、何かをやりきった、力を出し切ったという感覚は得られませんでした。

だから、このままでは死ねない。
死ぬ前に何かを成し遂げたい、納得したい。
とにかく楽しいことをしたい!

と強く思ったのかもしれません。

誘われて行った青山の「SEABIRD」のことが頭に浮かびました。
自分も一緒にやれるようになりたい。だから私にとってジャズは、他人から与えられた課題ではない、勉強や仕事ではない、自分で決めた、自分のための楽しみで、すごく大変だけれど「やりたいこと」です。

「SEABIRD」にいた人達は、それぞれの役目を果たしつつ、お互いをリスペクトして、自由で、楽しそうでした。
これはサッカーの良いチームにも似ています。

私が通っていた中学校、高校のグラウンドは、とても広くてフルサイズのサッカーのコートがとれました。ハーフサイズなら2面。中学校に入った直後、スト権ストで一日中授業が無かったり、先生が来なくて休講になったりしたことがあって、そんなときは同級生とサッカーをして遊んでいました。
サッカーはいちおうのポジションはあるけれど、野球のようには固定されていなくて、ディフェンダー(守備)でもシュートが出来たり、自由なんです。
ゴールという目標に向かって、全員がそれぞれの良さを活かして、お互いを助け合って、毎回全く違うゲームを展開する。


自由な校風にサッカーが合っていたのでしょうね。当時放映されていたダイアモンドサッカーというテレビ番組を見ていた同級生が何人もいました。私もその一人でした。イタリアでのワールドカップだったと思いますが、
その番組で見て憧れました。

女将
静岡県出身なので分かります。
サッカーはボールから遠く離れた選手でも、チームの一員として有機的につながって動いていますね。
お互いがお互いの動きに合わせて…まるで一匹の大きな動物のようです。

角谷
そうです、良いチームは良いコミュニケーションをします。
本当は、こういう働き方に憧れていたんです。
それぞれが自分の専門性や特技を活かし、お互いに助け合い、協力しつつ、プロジェクトを達成する。
約束事はあるけれど、その中で自由に動いていく。

そして成すべきことを成したら解散し、また別のプロジェクトで自分のやるべきことをやる。
みんなで力を合わせて新しいものを創り出して、それが世の中の役に立つ。

それがしたかったけれど…数回はこれに近いこともありましたが…、
私は職場で自分の専門性を高めきれなかったという思いがあるし、仕事では後悔が残っています。
だからジャズではこういう感覚を体験したい、という気持ちが確かにありました。

指揮者とか指示する人はいなくて、個人が対等につながる。
ジャズは自由で楽しいコミュニケーションの、純粋な形ではないかと思います。


今は原さんの「ジャズは所詮は歌なんだ」との言葉を理解できます。
ミュージシャンの中には非常に数学的に、緻密に論理を構築して作曲する方もいますが、原さんは感覚的だし、まあ私の場合は理論も知らず、分析能力も低いからかもしれないけど…、でも歌は誰でも歌えるもので、どんな人でも自由に楽しめるものだと思います。
バイクに乗っていたときも、ヘルメットの中で適当な歌をがなり立てていました。小さな子どもがお母さんの手を握ってなにか歌いながら歩いている、そんな感じ。適当であっても歌うのは楽しいんですよ。

「ジャズは会話」と原さんは言っていて、これもすごく分かります。
自分の創ろうという意志、話したい内容があるのが第一だけど、会話だから共演者の話を聞いて、つまり音を聴いて適切に反応できないといけない。
一方的に話すだけではダメで、実は「聴く力」がすごく試される。
聴くという意識が大事。
私はまだ全然できないけど、でも以前よりは理解できるようになってきました。

私はジャズの勉強は外国語の習得にも似ていると思っていて、まずはコミュニケーションしたい気持ちが大切ですけど、でもそれだけでは会話はできなくて、単語を覚えたり、慣用句を使えるようにしたり…。
それがコード進行を理解したり、アドリブが出来るようになったりで、地道な練習もやはり必要なんですね。

女将
ジャズの素晴らしさ、奥の深さを感じます。
確かに毎回全く違う展開で、違う「会話」になるから、スタンダードを聴いても全然飽きません。

角谷
そう、同じ曲でもまた聴きたくなる。

私は人に迷惑をかけてはいけない、人に話しかけることは相手の時間を奪うことだ、出る杭は打たれるから他人に本心を言ってはいけない、と子どもの頃から思っていました。
小学生4年生の時に父が難病で死にかけたり、高校三年生の時に母を亡くしたりして精神が不安定でした。
友達にも上司にも同僚にも「これをしたい」とか「こんなことで悩んでいる」と相談しなかった。一人で悩みを抱えて言葉を抑え込んでいる内に心が固まってしまいました。
そうしているうちに自分が粉々に砕け散って、毎日俯いて自分のかけらを拾い集めていた。でも、かけらを集めても元の自分にはなりません。
明日は生きて目が覚めるめるだろうか、この窓が開くなら飛び降りようかな。踏切の真ん中で立ち尽くしたり遮断機の向こうの電車に吸い込まれそうになったり…そんな時期もありました。

でも死ななかったのは、ジャズを習っていて、あの楽しそうなジャズのい世界に行きた加わりたいという気持ちがあったから。自由になりたかったから。
原さんのレッスンという決まったことがあって、毎週アルルのレッスンにも通っていたから。またジャズを通していろいろな出会いがあって、その人達がいてくれたから。

家族もレッスンは続けろと言ってくれました。
それで、なんとか回復に向かうことが出来た。

一作年の9月から原さんのレッスンでやっているのはベニー・ゴルソンの「ステイブルメイツ」
難しい曲です。
難しいけどやりましょうって原さんに言われて
「これが出来ると1つステップが上がる」
と。
ここでやめちゃったら、その先に行けない。
とりあえずここだけは(笑)…と思っています。


女将
角谷さんは「とりあえずの辛抱」が出来る方で、諦めないんですね。

角谷
今でもなんちゃってアドリブしかできなくて、3月にセッションに行って3曲か4曲演奏するつもりでしたけど全然だめで、2曲演奏して半泣きで帰ってきました。
自分では時間を費やして沢山練習してきたつもりだけれど、実際にはジャズを聴いた量も質も吹いてみたフレーズの数も大したことはない。20年経っても一向にアドリブができるようになったと思えない。何度も原さんのレッスンを止めようと思いました。でもここでやめたら、死ぬときに「自分は何もできなかった」と思うだろう。
だから、…またレッスンに行きます。

62歳だし、練習に利用していたスタジオがコロナ禍で閉店したので練習できる時間はり減りました。
だから、いろいろと限界も感じるわけですが…
原さんが20年間言い続けている
アドリブとは?
とか
ジャズの本質とは?
と言ったことについて以前より理解できるようになりました。

CDを聞いていても、以前は耳に入らなかったトランペット以外のベースもドラムも聴こえます。
トランペット以外の人達がどういう風に関わっているか、ジャズでどんな「会話」をしているのか。
セッションでも、時にはベースやドラムがトランペットにヒントをくれたりする。
そういうやりとり、「会話」の仕方も少し分かるようになってきた。

前は自分のことで精一杯だったのが、ちょっと落ち着いて、少しずつ周囲を見回している感じです。
だから原さんにはジャズを習っているわけですが、ジャズを通しての「ものの見方」とか、もっと本質的なことも教わっているのだと思います。

原さんが
「お茶の水のNARUに出る」
と言うから、ああそういう店があるんだ…と「NARU」に出かけて、そこで隣の人にしゃべりかけてみたら江古田に「そるとぴーなつ」というJAZZ BARがあると教えてもらって、行ってみて「こんな若手のミュージシャンがいるんだ!」と知ったり。

原さんのライブで「そば・料理 ありまさ」を知って、「ありまさ」で原宿の「JAZZ UNION」を教えて貰い、「JAZZ UNION」のバイトの方が坂野尚子さんというプロのフルート奏者で、その人が蒲田の「Cafe Quad」でセッションホストをするというので私も「Cafe Quad」のセッションに参加するようになったり…。

原さんがレッスンの合間にする雑談は、私に様々な情報をくれました。
ジャズミュージシャン、ライブハウス、そこで出会った人達…と世界を広げてくれた。
原さんがシーラ・ジョーダンと共演すると言うので、シーラ・ジョーダンを聴きに行ったりもして、自分では決して聴かなかっただろう人の演奏も沢山聴くようになりました。

女将
気になったところに積極的に出かけていく角谷さんもすごいです。

角谷
受け身で生きて来た自分を変えたかったんですよ。
20年間、月に1回欠かさずアドリブをひねり出すことを強制される。
これはすごく大変なわけですが、
強制され続けているうちに11年目くらいから、何かフレーズの断片が出てくるようになりました。

以前は「イメージを持って吹くことが大事」と言われても、イメージなんてできませんでしたが、今はブルースの練習で頭に浮かんだ短いフレーズを発展させることができるようになってきました。
練習が修行ではなくなってきました。

先日もアルルのトランペット仲間の集まりで、アドリブを演奏したら
「全部自分で考えて吹いたんですか? 随分上手になりましたね」
と言われて、まあちょっとは進歩しているのかもしれません。

1月に新宿のピットインで原さんも出ていたTRUMPET SUMMIT vol.1というライブがあったんです。
アンコールの時に原さんの教え子で進行役の佐瀬悠輔さんが「何をしようかな」と呟きながらアカペラでトランペットを吹き始めた。原さんを含む5人のトランペッターが瞬時に何の曲かを理解して入ってきました。
アドリブは一人ずつ順々に演奏するのでなく、6人が一斉にそれぞれのアドリブを吹いたんですよ。その曲のコード進行という土台を共有している。お互いを尊重して聴き合っている。だからバラバラにならないで厚みのあるアンサンブルになった。凄かったです。楽しかったです。中学生の時から私が憧れてきた自由とはこれなんだと思いました。原さんがレッスンで言い続けていたことはこれなんだと思いました。原さんがわざわざ変な音を出していたのは可笑しかったです(笑)。

トランペットとジャズを習い続けることで自分を縛っていた縄を一本一本切って、心の鎧を一枚一枚脱ぎ捨てて体も少しずつ動くようになってきました。
少しずつですが、自由になっています。

女将
原さんは「大学で生徒にダメ出しはしない」と仰っていましたが、社会人クラスではいかがですか?

角谷
リズムが狂っていたり、テンポから遅れたりすると手拍子が強くなったりしますが、
「君はダメだよ」
とは絶対言わないんです。
決して否定しない。

まあ好意的な反応がないと「ダメなのかな」とは思いますけど(笑)。
そこも含めて考えさせる。

超辛かった1回目の発表会の時、ステージで固まってしまった時も
「フェイドアウトっていう高度なやり方で終わりましたね」
とか何かテキトーなことを言って(笑)フォローしてくれていました。

原さんは褒めるわけではないけれど、どちらかというと励ます
気長に待っていてくれる。
それで続けられたところはあると思います。

ジャズの本質は自由。そして共演者やお客さんとその場で音楽を創ること。ジャズを聴いたり、習ったりすることで、自由の楽しさ、お互いを尊重して何かを創り上げることの楽しさを知る人が増えれば良いなと思います。
ジャズは楽しいぞ。

(おわり 収録2023春)

■角谷諭三郎さん プロフィール



会社員。1961年生まれ。男だけ4人兄弟の三番目。2003年10月、52歳の時にジャズトランペットコース生徒募集の案内が目に入り、翌月から原朋直さんのグループレッスンを受講。

■ NARU(お茶の水)

■JAZZ BAR そるとぴーなつ(江古田)

■ JAZZ UNION(原宿)

■cafe Quad

■新宿ピットイン ジャズライブハウス


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