そのとき、僕の心に張ってあった糸が、プツン、と何かの拍子に合わせて、勢いよく切れたように一触即発、片方の手は即座に動いていた。
あの人を殴打したなんて、あの人の青ざめた顔を見るまで、ちっとも気付けなかった。
僕は生まれて初めて、あの人を叩いたのだ。
手のひらがジュクジュク、と迫る痛みを催し、僕が下したはずなのに、自分自身の痛みのようにも感じられた。
あの人はまるで、珍獣にでも遭遇したかのような、奇妙な眦を決して、僕を面罵しようと前のめりになった。
「ちょっと来なさい!」
僕は言われるがまま、あの人に左手首を掴まれ、為す術もなく、台所へ突き合わせられた。
拘置所から背中に紐を巻かれ、刑務官に冷たく、案内された被告人が、眼光の鋭い裁判官を前に、誓いの文言を強要されるように、僕はその人から懺悔を命令された。
要するに、問答無用に謝れ、ということだった。
ただ、勉強がしたかっただけなのにこんなに無碍にされ、罵倒され、しまいには、将来の夢まで木端微塵に破壊されるなんて、予想さえしなかった。
通常ならば、勉強をさぼることで、こっぴどく叱られるのに、僕の母親は勤勉な息子が努力するのを阻止しよう、と目論んでいるのだ。
こんな母親だから、いつまで経っても底辺の負のループから抜け出せないんだろう?
この人の淫靡さを反面教師として学んでも、所詮は蛙の子は蛙だった。
僕の中にも淫蕩の血は流れ出る、溶岩のように貞操観念、という火口から溢れ出ている。
血眼になって、火口を封鎖しても、その有害な溶岩は僕の人生を描く、麓の町まで襲ってくるものだ。
分かっているじゃないか。常々、お前らしく。
鬼の首を取ったように僕はあの人から数発、殴られた。
頬は意外なほどまで、熱くはならなかった。滾りもしない。
あの人は狂乱しながら、僕の頭を殴り、頬をつねり、しまいには台所にあった、俎板で僕の背中を叩き、しかも、大声で滂沱の涙を流しながら、気が済むタイミングを見失うまで文字通り、折檻を続けた。
僕の内気な性格を鑑みて、殴られても特段と平気だったから、痛くも痒くもない。
小さい頃、こんな儀式は日常茶飯事だったし、殴られても人間は簡単には死なない、と自覚していたからだ。
懐かしい痛みが宙を舞い、光彩離陸まで放ち、床が妙に温感を帯び、足指が気だるげに吊りそうになる。
あの人はこれまでにないような派手に叫びながら、痛みがなくなるまで殴り続け、荒く息を切らしながら、最後はその場で泣き崩れた。
よろめいた僕は傷ついた、頬を軽めに手で確認する。
「今夜は遊ぶ相手の男がいないから可哀想だね」
嗚咽、というオタマジャクシを掴み切れずに泣き叫ぶ幼子のような、あの人は赤い危険生物の蛙のような顔立ちのまま、つかさず逆行した。
「あんたなんて堕ろしたかったんだから!」
惨めな異分子となった、僕の腕に現れたのは、流れ出るような赤い血だった。
自分の左腕をあの人が夕方、料理で使ったばかりの包丁で切られた、と気付くまで、時間はさほど下らなかった。
星神楽㊾ 星の外の陰謀論|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)
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