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 当たり所がかなり悪かったのか、血の勢いが想像以上に止まらず、あまりものの痛みで、僕は思わず、発作的に右手で左手を押さえた。血がどくどく、と噴射器のように絶え間なく流れ落ちた。 あの人が僕の方を茫然自失になりながら、見つめている。あの人の左手には、僕の血で染まった包丁が握られていた。

「あたしは……。あたしは。本当は」

 なぜか、僕も逃げようともしなかった。なぜか、心に浮かんだのは、母さんを僕の方から傷つけなくて良かった、という想いのフレーズだった。 諍いの声で筒抜けだったのだろう、玄関の格子戸がまざまざと開き、上がり框をいきり立って進入してくる、足音がする。不穏な空気を察して、台所へ入ってきたのは、有ろうことか、伯父さんだった。

「千夏、何があったのか……」

 伯父さんは真っ先に愛する、妹の名前を口にした。そのとき、二人の相貌がよく似ていたのを、僕は認めざるを得なかった。 衣通姫と軽王子が情死したときに、流れた時と同じように流れたであろう、真っ赤な血を押さえようとも、立ち眩みが止まらない。止血しないといけない、と思っても身体が思うようには動けなかった。

「あたし……。本当は」

 子供の頃、僕はあの人から散々、殴られて泣きながら、毛布にくるまってアザラシのぬいぐるみを抱えていたことを、不意に思い出した。こんなときに何の感傷に浸っているんだろう。

「堕ろしたくなかったのよ。本当に……」

 伯父さんは静かに包丁をあの人から取り上げ、あの人の頬を平手打ちした。僕の方こそ、見てられなかった。僕の哀しみが滲んだ、包丁が床に無造作にカタン、と鈍く落ちる。

「千夏、お前は何てことをしたんだ!」

 あの人は伯父さんに平手打ちされてもなお、必要以上に謝罪を繰り返し、泣きじゃくりながら、その場で腰を落とした。自意識過剰なまでに痛みを覚えるもんじゃなかった。

 深く刺されたのになぜか、痛みを感じない。涙ながらにあの人が何か言っている。
「あいつが辰一を痛めつけたのが、耐えられなくて。東京から逃げ出したのは、耐えられなかったからなの」

 伯父さんの強張った表情が見る見るうちに、居たたまれない眼の色へと変貌する。遠回しの表現が却って、深刻さの度合いを増していると、勘所のいい伯父さんは、はっきりと理解したに違いない。言えないんだ。誰にも。上か下か、どこか、判別がつかなくなる。

 ここは生き地獄。誰かの叫びが、透明な瓶の中で強打する。もう、全て話し、話されてしまった。あの人が着ていたカーディガンも、僕の返り血で赤く染まっていた光景が目に入った。

「母さんに会いたい……」

 激痛が今さらになって、深く浸透する。耐えきれない。こんな決まりきった、運命論に。きっと遠いどこかで、本当の母さんが僕の帰りを詫びて待っている。行かなきゃ、あの世界の果てへ。

 星の外に走り去り、窓を開けたとき、伯父さんの叫ぶ、どこへ行くの! という悲痛な声が聞こえた。庭先の気の早い、桜の花びらが残された空に舞い散っていった。

 花びらは哀しみにも似た、藍色をしていた。血が桜と混じる。僕が流した血の涙が。

星神楽㊿ 星と眠る家|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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