神社好きの小児科医

3年目小児科後期研修医です。神社のことを書きます

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最近の記事

能郷白山神社

 さきの4月13日の土曜日、能郷白山に登ろうと思って岐阜へ向かいました。すると国指定無形文化財、年に一度の能狂言の奉納がありました。  私は山登りも好きで、毎週末に登る山を考えます。その日はたまたま能郷白山にしようと思いました。  私は白山が大好きです。黒ボコ岩を超えてから弥陀ヶ原の木道をとことこ歩いていくのが好きだし、室堂から高天ヶ原を経て頂上を目指していくのはいつも胸が躍ります。山全体が美しくて、大きくて優しいのです。  能郷白山頂上からは白山が望めると聞いていました。

    • 三尾神社

       三尾神社は近江の大津に坐すお宮です。この神社は珍しく「うさぎ」が神様のお使いです。  JR大津駅の北方、三井寺の背後にそびえる長等山は古くからの信仰の山でした。また、京都の鹿ヶ谷や北白川に出る道もあり、交通の要衝でもあったようです。  その古い信仰の山のふもとに坐すのが三尾神社です。御祭神は伊奘諾命です。上古の昔、伊奘諾の命がこの地に降臨しました。その時に伊奘諾命は赤、白、黒の三つの帯を身にまとっており、その帯がたなびく様が三つの尾に見えたことから三尾神社と申すようです。

      • 須賀神社(湖北 菅浦)

         須賀神社と申します神社は日本各地にあり、そのだいたいが素戔嗚命をお祀りしているものと思います。今回は湖北の須賀神社にお参りいたしました。  この須賀社は淳仁天皇をお祀りしています。  淳仁天皇がかつて琵琶湖の北端の菅浦に保良宮(ほらのみや)を建てたのがお宮の始まりと伝えます。保良宮は近江のいくつかの地に伝承地があります。淳仁天皇は恵美押勝の乱にあって廃位され、淡路に流されて崩御したといいますが、菅浦ではここに隠棲して亡くなられたと伝えています。須賀神社の背後の山中にその陵

        • 白山中居神社

           白山中居神社は霊峰白山のふもとにいますお宮です。白山の神を祀り、岐阜からの白山への参拝道、美濃禅定道のなかほどにあります。    白山にはいままで3回登拝いたしました。いずれもすばらしいお参りでした。  白山中居神社のあたりには縄文の遺跡もあり、古くから白山は信仰をうけていたものと思われます。白山は奈良時代の僧、泰澄が開いたと伝わります。しかしそのはるか以前から大切な山だったのでしょう。加賀側のふもと、牛首村(現白山市白峰)には古い朝鮮語に似た語彙があったという話もあり、

          倭文神社

           倭文神社は伯耆国一宮です。建葉槌命(たけはづち)、下照姫命(したてるひめ)などをお祀りし、安産の神様として有名です。  下照姫命と申しますと、山城の玉津岡神社などを想起いたします。玉津岡神社のそばには高神社があり、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)をお祀りします。  古事記にいわく、この日本、葦原中国を治めんとして天照大御神が天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしましたが天稚彦は大国主に懐柔され、下照姫と婚姻して天津神に逆らうのでした。結局天稚彦は自らの逆心のゆえに滅びます

          英彦山

           大学での一年間の勤務が3月で終わろうとしています。小児科の専攻医になって一年たちますが、本当に公私共に色々ありました。仕事ではさまざまな難病にわけもわからず、私生活では結婚し頻繁に妻に怒られています。しかし、これからがいよいよ大変なことが出てくるのだと思います。ほんとうに人生は重い荷物を背負うようなものと思います。多くの仕事がそうであるように、医者の仕事もわけがわからぬものです。  去年のいまごろに英彦山に詣でたのでした。  英彦山は九州の霊山で日本三彦山とも呼ばれる(弥

          神田神社

           神田神社は滋賀県の大津、真野に坐す古社で延喜式内社です。ここは彦国葺命をお祀りしており、和爾氏の祖先、真野の民の祖先を崇じています。  堅田駅から北に20分ほど歩けば真野という土地で、そのあたりに神田神社が、上の宮と下の宮と2社あります。下の宮はとくに社殿は新しく改まり、境内の灯籠には電球が灯り、とても地域の人々から大切にされているのを感じます。清々しいお宮でした。  彦国葺命は和爾氏の祖先で、真野からさらに北に行きますと和邇という土地がありますから、このあたりは和邇氏の土

          雄琴神社

           仁寿元年に雄琴を拝領した小槻氏が創建したと伝わる古社です。雄琴の街を見下ろす位置にある立派なお社です。  雄琴と申しますと、たいへん古くからの温泉地でありますが、戦後からでしょうか、どうにも風俗地の印象が強くなってしまったようで、私も小さいころからそのような話を人から聞くことが多かったのですがその実は古色の著き景勝の土地なのであります。  雄琴の坂を登りますと、しだいに湖がよく見えてきます。お宮の手前には福領寺というお寺があり、円仁の作と伝わる重要文化財の阿弥陀如来坐像がま

          那波加神社

           那波加神社は滋賀は大津の苗鹿に坐すお宮です。延喜式内社で、雄琴を統治した小槻氏の氏神です。小槻氏はもともと滋賀の草津のあたりを統治していましたが、仁寿元年に雄琴をも拝領されたのでありました。  御祭神は天太玉命と申し上げます。  天太玉命と申しますと忌部氏の祖で、徳島あたりにお祀りされているのと、あとは伏見の金札宮などを私は思いますが、どうしたことでしょう。忌部の人々は大昔には苗鹿に縁があったものでしょうか。  那波加神社は荒御魂をお祀りする上の宮と本宮である下の宮に分か

          天河大弁財天社

          境内は春めいて馬酔木の花が咲いておりました。 天河大弁財天社は日本三弁財天の一にして遥か昔からの古社と伝わります。かつてさまざまな芸能人の方々が東京から来たと申します。 「むかしは大峰山の女人結界を避けて、女の人が山の下草刈りに雇われたりしたもんや。男を雇うより安いからな」 温泉につかっておりますと地元の古老からお話を賜りました。 「天川もいまは千人くらいは住んでいるが、じきに数百になるやろう。若い人には仕事が無いねん。林業はもうあかんでな」 夕が暮れてきますと、天川の空

          星田妙見宮

          星田妙見宮は大阪は河内の私市にある神社で妙見さま、つまり北辰の信仰のお宮です。 御由緒に曰く弘仁年間、弘法大師が近在の獅子窟寺にて修行の折に仏眼仏母尊の秘法修せられると北斗七星みっつに別れ星田の地に降り注いだと。そのうちの一がこの星田妙見宮のお山に降り、山の一部を粉砕、現在山が馬蹄型なのはその名残と申すようなのです。一つは星の森、あと一つは降星山光林寺に降ったと申します。 隕石が降り注いだとはとても刺激的なお話と思います。 小高い丘の頂に星田妙見宮は在します。その山頂に

          星田神社

          初期研修が修了いたしました。私は4月より小児科として某大学に勤めさせていただく次第です。 星田神社は大阪は河内の交野にある神社でして、もともとは物部氏の祖 饒速日をお祀りしたお宮だそうです。 この星田の土地は名前がしめす通り、星にまつわる土地です。 街を流れる川は天野川、また少し離れたところに星の森、星田妙見宮があり、かつて隕石が降った場所と伝わります。天野川の上流には磐舟神社と申し、 物部の祖 饒速日命が天から降るときに用いられた天磐舟と伝わる舟形の巨岩があります。

          大神神社2 十二柱神社

          出雲と言えば島根県ですが、奈良にも出雲という土地があります。 三輪山の南麓、初瀬川が流れる土地がそうです。 三輪山の神様は大物主神と申し、これは大国主命の「幸魂•奇魂」と申し上げます。それゆえ大神神社ではお祈りのとき「幸魂、奇魂、守り給え幸え給え」と申し上げる習わしです。大国主命は出雲の神様ですね。同じ神様ですが違う魂というのは、しばしば同じ神様の荒魂と和魂を分て祀ることがありますが、そうしたことの一例でしょうか。少しずつ勉強して行きたいと思います。 さて、そうした出雲の

          大神神社2 十二柱神社

          大神神社

          何故研修医が神社なのか。 それはお参りすると気分が良いとか、小さい頃からの習慣とかのさまざまな理由はありますが、私自身にあまり深い理由は無いようです。 研修医とはいえ医療は他の業種と同じく疲弊する仕事です。お参りしてもただちに何かが儲かるということはありませんが、しかし知らず知らずに苦しみながらも前に進ませていただく助けを頂いているように思います。じきに初期研修も終わりますが、お参りは続けたいものです。 少しずつ神社さんのことを書いていきたいと思います。 大神神社は大和国一