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「だ・である」は自意識のブレーキをぶっ壊してくれる。
文章を書くうえで「ですます調」にするか、「だである調」にするかは、非常に大きな選択だと思います。
noteをはじめて間もない僕もこの選択を迫られたため、ある実験を行いました。その結果、僕が文章を書くとき
「だである調」は自意識のブレーキを外してくれる
と認識できました。
noteを書く上で文体をどうするか問題
初投稿記事を書くにあたって、「です・ます」にするか「だ・である」にするか、ものすごく悩みました。
推敲を重ねた結果、僕は「です・ます」調を選択しました。
↑これが初投稿記事
エッセイや小説に触れてきた僕は、「だ・である」調に馴染みがある
僕はこれまで比較的多くの本や文章を読んできました。
古くは国語の教科書の評論文。大学自体には、論文や哲学書。最近では好きなエッセイ。その多くは「だ・である」調で書かれています。
そんな書籍にたくさん触れてきた自分が文章を書くと、内容は違えど自然に「だ・である」調になるのです。
「だ・である」調は″イキリすぎ″??
大学生の自分なら躊躇うことなく「だ・である」調でnoteの初投稿記事を書いたはずです。
しかしながら、大学卒業から10年近い月日が経ち、僕の自意識はすくすく育ちました。その自意識は「だ・である」調で文章を書くことをそう簡単には許しません。
歪んだ自意識が
「お前、この文章イキリすぎてないか??」
と僕に囁いてくるのです。
「です・ます」調で書くと文末の制限がある関係で、表現が少しだけ制限される
じゃあ、「です・ます調」書けば?
と思うのですが、それはそれで新たな問題が生まれます
文末表現の制限です。
アウトプットのレパートリーは、インプットの質と量が大きく関わっていると思います。
AIに食わせるデータによってアウトプットの質が変わるように、「だ・である」調でインプットをしてきた自分は、「です・ます」調のインプットが足りないため、文末表現がワンパーンになってしまうのです。
「イキってる?」と自意識が囁く「だ・である」調
表現に制約が出てしまう「です・ます」調
僕はどちらで書けばいいのだ!
同じテーマを2つの文体で書いてみた
叫んでいてもはじまらない。
論より証拠ということで、共通のテーマで構成だけ決めて、それぞれの文体で投稿をしてみました。
テーマ
通勤に使う駅で、アメリカンドックを食べながら文庫本を読んでいる、スーツ姿の女の子に出会った
構成
仕事からの帰り道、ハブ駅で女の子と出会った
その女の子はスーツ姿でアメリカンドックを食べながら、青い表紙の文庫本を読んでいた
人混みの中、堂々としている姿がカッコよく見えた
スーツとアメリカンドックと文庫本のミスマッチに心を惹かれた
まとめパート
⑤まとめパートは書く内容を決めずに、筆の走るまま書きました。
↓上が「です・ます」調、下が「だ・である」調で書いた投稿です。
「です・ます」調は控えめな表現に
「です・ます」調の投稿は、表現にブレーキがかかっている感覚でした。筆が乗りすぎることなく、感情の手綱を握ったまま書き切りました。
特に情景描写に関してはかなり控えめになりました。
駅の作りはあっさりと、女の子の描写もそこまでしつこくない。
僕は仕事からの帰り道、いわゆる″ハブ″駅で乗り換えます。
その駅では線路をくぐる形で一度地下に降りて、通路を渡ってから階段を登って別のホームへ移動します。
その人混みの中、彼女は階段の踊り場でアメリカンドックを頬張りながら、青い表紙の文庫本を読んでいました。
片足体重で少し気だるげに立ちながら、家路に向かう人たちの中で、1人だけの世界に入り込んでいる姿が、とてもカッコよく見えました。
最後は雑踏の中で彼女を見つけることができたのは、noteをはじめて″見ようとする意思″が生まれたからだと締めています。
見落としていただけでこれまでの人生でも、こんな出会いがあったのかもしれません。
noteを書くようになって、世界への解像度が少しだけ上がったのでしょうか。
この世界には見たいものはあまりなくて、見たくないものに溢れていると思っていました。
そんな世界を変えられるのは、″見ようとする意思″なのかもしれない。
そう気づいた帰り道でした。
自意識をコントロールしながら、今の自分の状態を俯瞰的にみて書けているなと思います。
「だ・である」調はエンジン全開
一方で「だ・である」調はフルスロットル。
慣れ親しんだ文体で表現に制限がかかりにくい分、書けば書くほど筆が乗ってきているのがわかります。
顕著なのは駅の描写です。
「だ・である」調では
・体言止め
・たたみかける表現
が制限なくできるため、駅の様子を連続して表せています。
駅から女の子へ視点が移ると、描写は自然と自分の思考へ展開します。
彼女も僕と同じ電車を待っているのだろうか。
今から家に帰るのだろうか。
それともエネルギーを補給して、またどこかへ向かうのだろうか。
はたまた誰かを待っているのだろうか。
かなりカッコつけた表現になっています。
そして極め付けは締めくくり。
彼女はいったい何を読んでいたのだろう。
僕の好きな本ならいいなと、そう思う。
正直なところ、読み返したときにイキリすぎてて削除するか迷いました。
しかし比較検討するというコンセプトでしたので、恥を覚悟でそのまま投稿しました。
検証結果
比較実験の結果、
ですます調
あまり使ってこなかった文体のため、表現に制限がかかる
制限下で書くため、じっくり考えながら書ける
自意識のコントロール下で文章を書くことになるため、俯瞰的な視点で書ける
だである調
親しみのある文体で足枷がない
制限がないためテンポよく書ける
書けば書くほど自意識のブレーキが外れ、エモーショナルになる。
ということがわかりました。
これまであまり深く考えないまま、使い分けてきた文体ですが、顕著な違いが現れたので今後、明確な意思を持って使い分けられそうです。
これからは、
エモーショナルに書きたいときは「だ・である」調
自意識を見つめて客観的に書きたいときは「です・ます」調
で執筆してみようと思います!
このnoteのテーマは「歪んだ自意識を手放す」ことです。
noteを書き続けていくうちに、文体による違いも薄れていって、どちらの文体でも思うままに心のうちを表現できるようになりたいと願い、この文を締めくくります。
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