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朝からアイスを食べる娘を前に思ったこと

2020年8月28日の朝。夏休みも今週で終わる。

朝から目標に向かって緻密な計画を立てて勉強を進める息子と、マイペースに起きてきて、一通りやりたいことをやりながら、ようやく重い腰を上げて「やっばー、まずいわぁ」と言いながら、アイス片手に追い込みをする娘。

私が息子の子育てに彼が小さいころから難しさを感じていたのは、もしかして昔の「自分」を見るようだったからなのかもしれない。

いつも何かに追い立てられるように、そして守らねばならぬと思い込んで、ルールを守ろうと、「何者か」になろうとバタバタ頑張ってきていた私は、無意識・無自覚に自分の中に「こうあるべき」をたくさん作り出して、自分を追い込んでいたのだと思う。でも本当は、娘のような「私は私」であることを楽しみ、そして「今」を楽しみ、天真爛漫を体現する自由な生き方を心の奥の奥では欲していたのだと思う。

そして、思えばこれも息子の性質なのだが、数分前にやっていたことを忘れてしまったり、モノをどこに置いたかを忘れてしまう、そういうことが日常的に起こり、それに振り回される自分にも昔からイライラしていたのを覚えている。

でも、今ならわかる。子供がどんな行動を取ろうと、目の前で繰り広げられる「出来事」や「事実」には意味はないのだ。そこに自分の価値観という色眼鏡で出来事や事実を解釈し、自分が小さなころから無意識に作り上げた「べき」を押し付けて、自分の「べき」をもとに「良い、悪い」「損、得」「正しい、間違え」などと二極でジャッジするから、いちいちイライラするのだ。

つまり、日々のイライラの大半とは意外と自分で生み出しているものだということ。そして、その「イライラ・怒り」という感情、とそれを生み出す思考が無意識に自分を痛めつけている。

勉強する前にアイスを食べる娘に、大昔の私だったら無条件で「何やってるの?こんな時間にアイス食べるなんてありえないでしょ」と雷を落としていただろう。物忘れをする子供を前に、嫌みたっぷりため息交じりに「あー、また忘れちゃって。」と、一瞥をくれていただろう。

でも、物忘れしたから何だ?っていう話。忘れるなら、どうしたら忘れないかを一緒に考える、一緒に忘れたものを探してあげる、どう努力しても忘れるなら、忘れたときの対策を一緒に考えてあげる。それだけ。「物忘れするべきではない、物忘れするなんて情けない」しいては「物忘れする子供の親である自分が情けない」なんていうジャッジ・決めつけがあるから、辛くなるのだと思う。そしてかつての私は辛かった。

アイスを食べている娘に何か違和感を感じたのなら、まず「あら、これまたなぜ今アイスを食べたいと思ったの?」とまずは興味をもって聞けばいいだけな気がする。その答えを聞いてみたら意外な結果が返ってくるかもしれない。「アイスを食べると、むっちゃテンションが上がって、やる気3倍になる」とか。朝から糖分を多く取ってしまうことで、結果的に生産性が落ちてしまうということに、本人が気づくなんていう経験学習もするかもしれない。

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経営者、管理職研修のような一定の年齢の方々から、10代の若者まで、多様な方々に出会い、交わる機会に恵まれている中で、私が最も大事にしている言葉がある。それは、大久保寛司さんに教えて頂いた

「相手には、そうする理由がある。」

という言葉。

所詮私なんて、私が経験から知り得た、ほんの限られた視点からしか物事を見れないのだから、相手がなぜそうするのかをまず知る努力をできる自分でいたい。

目の前で繰り広げられている「出来事」や、起こっている「事実」に対して、昨今のメディアのようにすぐ相手の「良し悪し」を決めつけてジャッジして、たたくのではなく、まずは相手がそうする理由を理解することからできるような自分でいたいと思う。そこがスタート。

でも、「そんな、日々多くの部下に囲まれててそんな冷静な対応なんてできませんよ。」というあなた。その気持ち、私にももの凄く分かります。その上で、忙しい日々を送るあなたに、もし何か情報提供ができるのだとしたら。

一日に15分。頭を雑念や思考から解放し、自分自身とゆっくり繋がる・対話する時間を持つことをお勧めするかな。

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