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(現在編集中)共通のルールの下で争う物語


 僕は受験勉強をほとんどしなかった人間なのだが、たとえ生来のズボラな劣等生であっても、他人と同じように受験へのプレッシャーは感じていた。当時のぼんやりしていた時を思い出すと、泥濘に足をとられ、そのまま沈んでいくような気怠い逸脱の気持ちよさと気持ち悪さをいまだに反芻してしまって、居心地が悪くなる。


 なにがそんなに嫌だったのかと言うと、小学校の次はもっと難しい中学校というのがあって、中学校の次はもっと難しい高等学校というのがあって、高等学校の次はもっと難しい大学というのがあって、大学の次はもっと難しい社会人というのがあって……という段階を踏んでどんどん大変になっていくという世界観の刷り込みに苦しめられていた、というのが少しあったんじゃないか?と思っている。

  そこでふと気づくことがある。


 これは、ストーリーの作り方の基本の一つだ。


 小学校から中学校、中学校から高校へと段階を踏んで過酷になっていくというストーリーは、漸増法と呼ばれる書き方とつながっていて、主人公が冒険に出て、深部に近づくほど敵が強くなっていくのと同じである。


 漸増法のストーリーでは、敵が強くなっていくのに合わせて、主人公も強くなっていく。終盤では両者ともに人間性から離れて、もはや初期の面影もない化け物みたいな人間になっていって、バトルも(そんなものがあればだが)激化していく。戦闘力が数値になっていれば百、千、万、億、と増えていって、最終盤で待ち構える強敵の数値が高ければ高いほど、待ち構える巨山に向かってぶつかっていくような期待と緊張が生じる。


 漸増法は、まさに少年漫画のインフレだが、文学においても機能していることはそれなりにある。「蛇にピアス」(著・金原ひとみ)ではピアッシングの痛みが級数として数値化され、0に近づくにつれどんどん過激になっていくし、「掏摸」(著・中村文則)などはスリの標的であるカネや物資がどんどん高度な武装の下に隠れるようになって、盗むのが困難になっていく。表現がエスカレートしていくということですね。



 ただ、文学の主題はローカルな個人的領域の苦しみな場合が多くて、第三者から「転職したらラクになるんじゃない?」だとか能天気な声が降ってくることもある。だから、言葉にならない煩悶で苦しい応答をして、それでも自分のしている仕事なり悩みなりにしがみつく姿が人間臭くていいのだ……という書き方になると思う。

 主人公の苦しみがエスカレートしていく、ということが文学における漸増法のありがちな使い方なのだと思う。

 しかし、僕が書いているのはもっと大勢の人を強制的に巻き込んだ大戦争のような話だ。「転職したら解決するんじゃない?」というそのへんのお節介おじさんおばさんが、美しい芥子粒として懐かしく思えるくらいに、大がかりなスケールの話を書きたいなと思っている。


 小学校から中学校へ、中学校から高等学校へ、高等学校から大学へ、大学から社会人へ、というのは誰もが通る型のようなもので、参加している人の数が多いぶんスケール感も共感性も高い。漸増法もうまく機能している。けれど、大人になったらそんな型は世界に存在しなくなるので、共通のルールの下で争うこともなくなる。

 漸増法の考え方は、少年漫画なら多くの登場人物を巻き込んでどんどんインフレを下から上へ押し上げていくことになる。小説のある種の渋さと、そんな少年漫画のスケールが合わされば、漸増法を使ったストーリーはもっと魅力的になるんじゃないかと僕は思っている。愛情や苦しみの深さを競い合うとか……。先へ進むほど過酷になるだなんて、こんなものをそのまま人生観にしたらたまったものじゃないが、ストーリーを考えるうえでは面白い指標にはなるんじゃないかなぁと思うが、いかがでしょうか?


 多数の人間が同じ土俵に立って、まだ未熟でなまぬるくて神経質な人も、過酷な世界を知っている人も、世間となんの干渉のない天使のような人も、みんなが半ば強制的に対話するようなストーリーだ。共通のルールで争うという機会がなければ、そして深部にいくほど過酷で人間離れした世界が待っていなければ対話が発生しないような人たちが、まったく個性の違う人たちが、たかが学校の試験のことだったり、あるいは世界の王を決める冒険のなかで会うことになる。


 そう考えている途中でも、やはり、「みんなが共通のルールで争うこと」ってほとんど存在しないか幻のようなものだという気持ちがムクムク芽生えてくる。そもそも人間の長所というのは無数にあるし、一つの数値に押し込められるものではない。大人になってからの仕事の分野も多様だから、他人がどれだけ凄い奴だろうとその凄さなり功績なりが理解しきれない。「私の戦闘力は〇〇万です」とか「俺の借金は〇〇億です」とか「重版回数は〇〇回です」と言われても、基本的には他人事でしかない。

 早寝早起きの時間でも競い合うかなぁ。「午前4時ごろに起きました。会社に行く途中に立ち寄ったカフェで、コーヒーとアプリコットを食べたから気持ちよく仕事を始められました」「私は2時に寝て5時に起きました。この年齢になるとすぐ目覚めてしまうのですが、でも朝日を拝めて嬉しかったです」とか、それぞれの健康性を競い合うのである。


 漸増法を応用するとしたら、早寝早起きを続けた日数が加算されていくほどサイヤ人みたいに健康になっていくとかだろうか。1000日早寝早起きした者はサイヤ人になれるとか……。

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