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歩き方とフィクションの関係


 ホラー映画、「テキサスチェーンソー・ビギニング」のラストシーンを強く記憶している。

 他のシーンは忘れても、あのレザーフェイス・殺人鬼トーマスが全ての生存者を殺し終えた後の数秒は頭に焼付けている。ちょっとしたイメージにとり憑かれるということが誰しもあると思うのだけれど、僕にとってはあの数秒がそれで、記憶と言うのはよくわからないものだと思う。

 最後の生存者の女子大生が車に乗って逃げ去ろうとしたら、後部座席にトーマスが待ち伏せていて、チェーンソーを突き刺してくる。女子大生を殺害した後、トーマスは車から降りる。一仕事終えた後らしく、とてもゆっくりとだ。それから仲間の殺人鬼一家の待つ自宅まで、帰り道を歩き始める。トーマスはあまりにもやるせなさそうに歩く。返り血を浴びたチェンソーを握る手も、持つというよりただぶら下げているという感じで脱力している。俯いているかどうかまではカメラのアングルではわからない。しかし、まさにトーマスの姿には「とぼとぼ」という擬音がつきそうだった。


 僕はテレビの前で少し困惑しつつ笑ってしまった。これほどの殺人鬼でも仕事を終えた後はしょぼくれた歩き方をするのかと思ったからだ。いじけている子供みたいで、少なくとも怖くはない。それから、見ている側も自分の歩き方について思いをきたした。

 普段、自分の歩き方を注意したことはない。他人の歩き方もさほど気にしない。いつも何か心配事に気を揉んでいるというのもあるし、歩き方を意識するほど健康志向でないというのもある。たしかに、気持ちよく颯爽と歩く人はいる。その颯爽の仕方の感じがいささか良すぎて、一緒に歩いて落ち着かないという人もいる。猫背で歩く人もいるし、そうでない人もいる。歩調が合うか合わないかの違いもある。でも、それはみんな粛々と流されていく他人事である。別に批判したり意見したりするようなことではない。


 けれどもこの殺人鬼トーマスの「とぼとぼ」歩きを見ると、カタログ的に様々な歩きかたを意識するようになってしまった。「とぼとぼ」歩く人もいるし、「颯爽とスタスタ」歩く人もいるし、「ぎこちないなりにてくてく」歩く人もいる。そうか、こんなに色んな歩き方があるんだ。

 小説の話をしよう。

 僕はこの十数年ほどずっと小説を書いているのだけど、主人公たちがどんな風に歩いていたのか考え始めると、個人的になるほどと思うことはある。世界観と歩き方がとても自然にマッチしているからだ。恐らく、他人の書いた小説においても同じだ。

 暗くどんよりした世界観の小説では、たとえば主人公はヨロヨロと虚ろな顔をして歩く。治療薬や今月の給料や食料やらを探し求めるが、気持ちは半分諦めている、というような歩き方。

 もしこれが同じ小説の内容で「颯爽とスタスタ歩く」のだったら、随分と印象が変わる。例えば、暗い世界にもなんとか善や愛の光を投げかけようという主人公の強さが滲んでくるだろう。なんのセリフがなくても、説明がなくても、歩き方というので全体のイメージが変わる。

 中上健次さんは小説で行き詰まると、必ず主人公を歩かせたという。歩かせると人は求めている場所に行き着く。その歩かせる場所がどこなんだってことが、実はテーマでもある。(北野武)


 たしかに、移動のシーンにはその小説の本質が映るように思う。価値観や善悪が滲む……という大袈裟だけれども、なにかがあると思う。

 村上春樹の小説だったら、村上春樹的な歩き方というのがある。ガールフレンドや友人と、少しだけ気怠そうなしっとりした雰囲気で歩く。気を許し合っているがために、すんなりと哲学的な会話も通じ合っていく。

 平野啓一郎の小説だったら平野啓一郎的な、少しカリカリした深刻な表情で歩くだろう。刻々と自分を蝕んでいく悩み事に耽りながら、新幹線から降りて、駅のホームで苛立っているサラリーマンと肩がぶつかって……。

 しかし、「色んな歩き方がある」というだけでは当たり前のことだ。僕は何を書きたいのか?

 延々と歩き方について書くことで、小説執筆者に役立つかも知れないなんらかの批評に繋げようとしているのだが、ぜんぜんうまくいかない。「そこに何かがある」というだけではなんの論拠にもならないということだろう。

 ここで思い切って大袈裟な仏教用語を使って、批評性を出してみるわ(どーん)。

「往相と還相」


往相とは

仏語。浄土に往生すること。その往生するまでの姿。(コトバンクより引用)


還相とは

仏語。往生して仏になったのち、再びこの世にかえって利他教化(きょうけ)の働きをすること。また、そのためにかえる姿 (コトバンクより引用)

 

 これ、伝わりますか?僕はよくわからない。

 そもそも歩き方との関係と言うか、論理の繋がりがよくわからない。けどせっかく思いついたんだし何か繋がると信じて書いていくことにする。頑張ろう。


 僕の大好きな喫茶店のマスターが教えてくれたのだけれど、往相とは「受験勉強を頑張る学生の知的熱病」のようなものであり還相とは「人生の酸いも甘いも知り尽くした後の追想」のようなものらしい。

 つまり、往相は本人がなんらかの上昇志向のために頑張る、ということである。下から上へである。還相は功徳を積んだ後に世俗に降りてくる状態である。これは上から下へである。

 若いころは上昇志向で頑張る。これが往相。高齢者になったら、経験に基づいて世俗を見渡す。これは還相。くらいの意味なのだろう。仏教においては悟りをえるための理論としてあったらしいが、世俗的な考えにも援用できる。

 歩き方となんの関係もないじゃないかと思われるかもしれない。しかし、少し無理をしての考えを小説の主人公たちの歩き方に当てはめると、村上春樹の小説からも平野啓一郎の小説からも、あることがわかってくる。

 歩くということには「往相」と「還相」の両方を満たすところがある。

 みんなが大好きな村上春樹の「ノルウェイの森」のワンシーンを思い出してみよう!自制を失い半分くらい忘我している直子が、ワタナベを連れて何駅分もの長距離を歩くシーンがあるが、このシーンは往相でも還相でもある混じり合いのシーンである。ワタナベは直子と結ばれたい一心で求愛しているのだから、直子の散歩に付き合う努力は「往相」だろう。しかし、途中から余りにも長く歩いていることに気づき、不安から感情が変質してくるのは「還相」だ。
 歩くということには、必然的に葛藤を生む力がある。何故だかわからないけれどそういうことになっている。歩きながらワタナベも葛藤しているし、もしかしたら直子も葛藤している。

 希望を持ちながらも「大丈夫だろうか?」と不安が過ぎってくるような歩き方だ。ポジティブなものを揺らがせ、ネガティブなものを祈りに変えるような力が歩くことにはある。僕も考えが煮詰まってきたり、単純に仕事に飽きると、長い散歩をするのだが、途中で安楽椅子では考えもつかなかったようなアイデアが出てきたりもするし、疲れてきて気怠くなったりもする。やはり、ポジティブかネガティブか、単純には割り切れない。

 一つ言えるのは、歩きながら葛藤するシーンってちょっとだけ魅力があるよね、ということだと思うのだが、いかがでしょうか?


ここからはおまけ


 けれども、では小説を書くにあたっては登場人物をひたすら歩かせれば無条件に面白い何かが起きるのだろうかと言うと、そんなことはない。小説は基本ディアローグなので、自分以外にも登場人物がいないと面白くない。だいたいの小説は歩いている途中で誰かに出会い、立ち止まり、その場で関係をつくっていく。

 僕はあんまり造詣がないけど日本舞踏の能楽は、旅人が土地の記憶=霊と巡り合う話の一つのパターンである。当然ながら、旅人と言うのはひたすら歩いている。そして旅人が土地で休憩していると、見知らぬ誰かが挨拶してきて意気投合し、眠るとさきほどのその誰かが霊となって自身と土地の記憶を語り始める。そして起きるとあたりには誰もおらず静かに風に吹かれる土地が残るばかり……というのは能楽の流れの一つであるが、これは特例的な幸せな歩き方だと思うし、書き方の基本のひとつだと思う。

 しかし普通の人はいくら歩いてもなかなか土地の精霊なんかに会えない。当たり前だが霊能力なんてないから。「なにか」を感じたくても、場所も手段もない。途中で経由する休憩場所といっても電車内くらいしか思い浮かばないけれど、山手線や埼京線なんかに乗れば満員すし詰め状態で、詩情も何もない。休憩も出会いもクソもなくクソである。多くの乗客は早く着かないかなぁと思うだけだと推測する。

 テレビゲーム内の「歩き方」でさえ適当なもので、街から街への移動はさっさとファスト・トラベルで飛ばすのが普通である。移動そのものがおもしろいオープンワールドゲームは少ないので、誰か知っている人がいたら教えて欲しい。

 歩くことが好きな人も嫌いな人もいるだろうけど、これだけ忙しい現代では、時間の節約を考えて、なるべく省略していきたいことなんだろう。

 けど、もしもよかったらたまに長く歩いてみてください。

 歩くということの豊かさは、本来無限に拡張できるものである。「往相」も「還相」も一緒になって、これまで見たことのない自分に会えるのが「歩く」ということである。ひたすら歩くということのみに、主人公の動きを限定した小説をずっと書きたいと思っているのは、ただそれが曲芸スポーツ的な面白さをもっているからだけではない。歩くということじたいを新しく拡張したいからだ。


 ドン・キホーテが風車に突っ込んでいったのと同じように、あの夕陽に向かって歩こうじゃないか!

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