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アイデンティティの確立と近代的「大人」像 —大人こそ、甘えるべきである

アイデンティティの確立

あなたは「アイデンティティ」という言葉を聞いて、どんなことを思い浮かべるだろうか。人によって様々だとは思うが、「アイデンティティは確立するべきものである」と考える人は多いのではないかと思う。
そもそも、「アイデンティティの確立」は、アメリカの心理学者であるエリク・H・エリクソン(1902-1994)により提唱された概念である。
彼は、「アイデンティティの確立」を、誰もが青年期に直面する心理的課題であるとした。そして彼以来、アイデンティティ=確立するべきものであるという認識が広まり、今日の心理学においてもそのような認識が(おそらく)主流である。

先述したように、エリクソンは1900年代のアメリカに生きた人間であるが、2001年生まれ日本育ちの私が考えるに、彼の唱えた「アイデンティティの確立」を現代日本社会の文脈で捉える上では、2つの検討するべき事項があるように思われる。
それは、エリクソンの論では
1人につき1つのみのアイデンティティの確立が想定されている
という点と、
日本は宗教色の薄い国である
という点だ。
そして結論を先に述べると、これらを検討した上で私が言いたいのは、
アイデンティティは複数確立されるのが自然
であり、
1つのアイデンティティに自分の存在を依拠することは、極めて危険である
ということだ。
ひとまず、先に挙げた2点について検討していくと、私の言わんとすることも自ずと分かってもらえるのではないかと思う。

アイデンティティは一つだけ?

エリクソンが、青年期において確立されるべきものであると考えていたのは一つだけのアイデンティティであるが、人間という存在の捉え方として、果たしてそれは妥当であるのだろうか?ということについて考えてみたい。
1人につき確立されるアイデンティティが1つであるとしたとき、自分自身に対して立てられる問いは次のようなものである。
すなわち、「私とは何者であるか?」という問いである。
そしてこの問いに対し、真面目に向き合おうとする人の多くが「自分探しの旅」に出たり、納得できる答えを見つけられずに精神を病んだりしてきたのである。

この問いに対して、多くの人が答えを出せないのは何故か?
それはシンプルに、問いの立て方があまり良くないからである。
ここで、この問いに1本補助線を引いて考えてみる。
つまり、1つだけではなく「複数のアイデンティティの確立」を想定するのだ。
このとき、
「私とは何者であるか?」という問いは、
何をしているとき/どんなとき の私は何者であるか?
という問いに変化する。

漠然とした「私とは何者であるか?」という問いに対して、この問いはかなり単純で答えやすい。
「学校にいるときの私」は「生徒」であるし、
「家族といるときの私」は「息子」であるし、
「友達といるときの私」は「友達の友達」である(ちょっとややこしい表現)。
そして、「1人でいるときの私」は、そんな沢山の「私」がそれぞれ異なる比率で自分の身体の中に存在しているのである。

このことを身近な事例で考えてみよう。
例えば現代の若者は、同じSNSの中で複数のアカウントを持つことが当たり前になっている。
これは、「ある人たちの前で見せるアイデンティティ」と、「他の人たちの前で見せるアイデンティティ」という複数のアイデンティティが確立されており、それを(おそらく無意識的に)使い分けているのだと考えられる。
「複数のアイデンティティの確立」という補助線を引くことによって、「私とは何か?」という複雑な問いに答えることができる。既に私たちはそれを(ほとんどの場合無自覚に)行っているのだ。
このように考えてみると、「アイデンティティは複数確立してあるのが自然である」という私の主張にも、納得していただけるのではないかと思う。

アイデンティティと宗教

さて、ここからはアイデンティティと宗教の関係について考えてみたい。先にも述べた通り「アイデンティティの確立」を想定したのは、アメリカ人心理学者のエリクソンである。彼が確立すべきアイデンティティとして1つだけのアイデンティティを想定していたことは、アメリカの人口の約8割が一神教であるキリスト教を信仰していることが、大きな影響を与えたのではないかと考えている。
つまり、「唯一絶対の存在である神に向き合うのは、唯一(1つだけの)絶対の(確立された)アイデンティティを持つ者である」という考えが背景にあったのではないだろうか。

ところが、日本はそもそも宗教に対する信仰心が薄いし、どちらかといえば、古来から「八百万の神」や「七福神」のような多神教の風土を持つ国なのである。このような国に、一神教が主流の国で作られた「アイデンティティの確立」という概念を当てはめようとすれば、無理が生じてくるのは明らかであろう。
そして、この後見ていくように、実際にそういった意味で無理が生じていたのが、私たちより2回りほど上の世代(所謂おじさん世代)の人たちなのである。

無理が生じた近代的「大人」像

「もう大人なんだから...」というフレーズは誰しもが耳にしたことがあると思う。このフレーズの後には大抵、「しっかりしろ」「甘えるな」などの言葉が続く。しかし、よくよく考えてみてほしい。
なぜ大人は「甘えてはいけない」のだろうか?
20歳を超えたり、社会人になったからといって、辛いことが全て楽しく感じられるわけでもない。悲しい出来事があったら悲しいし、面倒臭いものは面倒臭い。
でも、何故か「大人は甘えてはいけない」のである。
そして、この規範の背景にはアイデンティティの問題があるのではないか、というのが私の考えである。

”ミッドライフクライシス”という言葉をご存知だろうか。
ミッドライフクライシス(Midlife crisis)とは、「中年の危機」とも訳される現象で、中年期において、アイデンティティの揺らぎや葛藤などが起こることをいう。
男性では体力の衰えによる仕事能率の低下や定年退職で、女性では子どもの独り立ちが原因でミッドライフクライシスに陥ることが多いと言われている。

一般に、この現象ではアイデンティティの「揺らぎ」が生じていると説明されている。
しかし、そもそもこの人たちはアイデンティティを「確立」したのではなく、仕事や家庭など、ただ一つの場所に自分のアイデンティティを依存させてきただけなのではないか?というのが私の持論である。

現代よりも盛んに性別役割分業が行われていた時代、男性の多くは「仕事人としての自分」、女性の多くは「母としての自分」という一つのアイデンティティに、自分の存在を依拠してきた。
当然ながら、人はいつまでもバリバリ仕事ができるわけではないし、母親はいつまでも小さい子どもの母親で居続けられるわけではない。
しかし、彼らにとっては、「仕事人としての自分」「母としての自分」が自分の全てであり、故に、自分自身のアイデンティティを揺らがせないために、長時間残業をしたり、部下にパワハラやセクハラを行ったり、とっくに独り立ちした子どもから子離れができなかったりするのではないだろか。
つまり、長時間残業やハラスメント、子どもへの依存は、彼らにとっては「自分が何者であるか分からない」という恐怖から逃れるための、まさに命懸けの行為なのであると私は考えている。
そして、だからこそ、彼らにとって「誰にも甘えずに仕事をこなすことができる」「誰にも頼ることなく育児をすることができる」など、「自分がこなすべき領域では他人に甘えない」という信条は、自分自身の存在を担保するために必要不可欠なのである。
つまり、「大人が甘えてはいけない」のは、近代的な「大人」像が、仕事や家庭の場といった一つの場所に、自らのアイデンティティを依拠することを前提に作られているからであると言えるだろう。

複数のアイデンティティを確立することは、日本社会で生きる我々にとって自然なことである。
そして、ここまでの論を踏まえると、複数のアイデンティティを持つことが比較的容易になった現代日本社会においては、むしろ大人こそ、色んな人間に甘えるべきなのではないかと思う。
甘え上手な人は(たとえ性格や行動に多少の難があっても)多くの人に好かれやすい傾向がある。それは多分、人間という存在の本質を捉えている振る舞いだからなのだと私は思う。
私もうまく人に甘えられるような大人になりたいものである。



ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
では、また。

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