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自衛は「本能」か、それとも「屈辱」か。

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。
今回も少々時事ネタ寄りなお話ですので、雑記帳の方でお送りします。

表題は、性犯罪に関する話でして、定期的に話題に上る、

「被害者の側が自衛を促されるのは、おかしいのではないか」

というものです。

以前からこの話に関しては、

「正論ではあるけれど、現実に則していない気がする」

という漠然とした感覚を抱いていたのですが、先日Twitter上で気になるやり取りを見かけたのをきっかけに、ちょっと丁寧に言語化を試みてみよう、と思った次第です。

個人的に、自分を衞るということに抵抗があるという声を聞くと、決まって「ロボット三原則」を思い出すのですよね。

第一法則:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二法則:ロボットは人間に与えられた命令に服従しなくてはならない。ただし、与えられた命令が第一法則に反する場合はこの限りではない。

第三法則:ロボットは前掲の第一法則,第二法則に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。

アイザック・アシモフ「ロボット工学の三原則(三法則)」
引用元:コトバンク

ロボットですら、自分を衛るという「義務」を課せられているのだよな、ということで。

もちろん、人間には心がありますので、こんな風に簡単にルール付けは出来ないのですけれどね。
では順を追って、人間の場合の話をして参りましょう。


自分を衛るのは、動物の本能

こんな風にPCの前に座ってキーを叩いていると、つい忘れがちですが、われわれ人間も、ホモサピエンスという動物です。

動物である以上、危険から自分を衞るという防衛本能が備わっています。
これが無ければ、個々が生命の維持を行なうことができず、種の存続に関わります。

「生き抜く」ということ自体がミッションであるとするならば、自分を衞るのはそのミッション完遂における日常的なタスクに過ぎませんから、自衛という行為に疑問を抱きながら生きている動物はおそらくいないでしょう。

ですので、おそらく「自衛が必要か否か」などということについて、悩み議論しているのは、この地球上では人間だけだろうと思ってみたり、です。


思想は本能を超えられるか

マクラはこの程度にして、本題に。
冒頭でお話した、Twitterでのやり取りについてです。

発端は、キャリアコンサルタント・境野今日子さんの、こんな発言でした。

内容としては、就活生に対するセクハラに関してのものですね。

これについて、以下のようなやり取りがありまして…

ここで、「自衛」という言葉が登場していますね。
先ほど引用した記事でも、就活生が取るべき自衛策について、以下のようなものが述べられています。

①時間・場所の限定
日中で、社内や喫茶店など人の多い場所にしてもらうこと。自分や相手の居宅、宿泊先のホテルの個室などは避ける。夜しか都合がつかない場合も酒席は避け、酒席にこだわる相手なら他社員の同席を求める。

②プライベートな質問への対応
「恋人はいるのか」といった私的なことには聞かれても答えない、当たり障りのない回答をする、聞きたいことを質問するなどして話題を変える。

③証拠を残す
スマホなどでの録音も考慮する。「今後の参考のために記録させてください」などと相手に対し録音していることを伝えるのも効果的。

④断る勇気も
幾度か会ってみたが危ないと感じる、会っても有益な情報を得られそうにないと思ったら、OB訪問に対するお礼とともに、就活が繁忙期に入ったと伝えるなどして丁重に断る勇気を持つことも大切。

<引用元(一部抜粋)>
https://best-legal.jp/job-hunting-sexual-harassment-19509

そして、皮肉にもと言いますか、この件を掘り下げようと思ってGoogleで「就活生 セクハラ 自衛」と入れて調べた時、トップに出てきたのは、就活生の自衛策に関するものではなくて、就活生にセクハラだと思われないための自衛策の話でした。

先のやり取りで反論者さんがおっしゃっている、

「勝手に加害だと認識して自分の至らなさを人のせいにする」

「それ(自衛)すらせずに、周りだけが悪いとして無関係な類までそう言う存在とする」

というのも、何ら悪意も他意もなく接したものがセクハラだと扱われ、なおかつ、さらにそれを無碍にしたことが悪評価に繋がったに違いない、とまで、身勝手に判断する材料にされてしまうことへの危惧と思われます。

もちろん中には、本当にセクハラ・パワハラと呼ばれるべきものも含まれることでしょうし、それは許されないことです。
ですが、明確な線引きの無い領域で、かつ何ら自衛策も取らない状態でOB/OGに接して、自らの指標だけで一方的に「セクハラだ」と主張するのは、人間同士の交流としていささか乱暴ではないか?、というのが、反論者さんの意見でしょう。

実際、企業側もこうした受け身のトラブルを避けるために、表向きは「機密情報の漏洩防止」などとしつつも、OB/OG訪問自体を禁止しているところもあるようです。

……といった辺りを踏まえつつの、境野さんとのやり取りの続きがこちらなのですが…

この投稿に、私は首を傾げました。
まず何より、

①「自衛で何ができるんですか?」

という言葉が理解できませんでした。
また、さらにその次の

②「まるで被害者が悪いような物言い」

については、反論者さんがそんな話をしているようには全く感じられなかったのに加えて、そもそも①と②がどう繋がるのかが分からなかったのです。


意味、という言葉の意味を考えてみた(禅問答)

とりあえず深呼吸をして、順を追って考えることにしました。

まずは、①「自衛で何ができるんですか?」ですが、私は最初、これを言葉通りに「自衛でできることなどない」と読み、つまり「自衛は無意味である」というニュアンスだとして捉えました。

……で、理解への道が一旦そこで完全に止まってしまいました。
自衛が無意味……とは?……、と。

「自らを衛(まも)る」という行為は、人間の動物としての本能なのは間違いなく、また、先に抜粋引用しましたセクハラ対策のように、就活生が気をつけることで回避できるリスクも示されています。

ちなみに、境野さんはさらにこのようなツイートを続けておりますが、

繰り返しですけれども、先の引用記事を見れば分かる通り、自衛とは直接のフィジカルコンタクトのことだけを指すわけではなく、「そもそも一対一のフィジカルでの接触を許すようなシチュエーションを防ぐ」ことからが、既に自衛なわけです。

これらを踏まえて、自衛が行動として無意味であるとは、どうしても考えられませんでした。

***

Twitter上で私がこの件を引用RTした際にも、いくつかご意見をいただきました。
その中に、女性からの意見として、

「女性の中には、性犯罪に巻き込まれる瞬間だけでなく、日常的にそうした攻撃に対してプレッシャーを感じながら暮らしている人もいるので、その気持を表したものではないか」

という話があり、これには一理あるとも思ったのですが、何かそれでもしっくり来ませんでした。

何かもっとこう、根本的な価値観の違いみたいなものがあるから話が噛み合わないのではないだろうか、と思ったのです。

***

と、まぁ色々と考えあぐねたところで、ふと、
「意味、という言葉の意味が違うのではなかろうか」
と、まるで禅問答みたいなことを思いつきまして。

でも、そんなこと今まで考えたこともありませんでしたから、ちょっと面白そうだと思って調べてみたのです。

い‐み【意味】 の解説
[名](スル)
1.言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の意味を調べる」「愛を意味するギリシャ語」

2.ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の意味で一席設ける」「意味ありげな行動」「沈黙は賛成を意味する」

3. 価値。重要性。「意味のある集会」「全員が参加しなければ意味がない」

引用:意味(いみ)の意味(Weblio辞書)

まぁこの場合は3だよね……と思ったところで。
「価値」「重要性」という言葉に、ピンとくるものがありまして。

それで、あらためて境野さんのツイートを見直しまして……ようやく「これではないか」という、禅問答の悟りに辿り着くことができました。

要は、この話において最も重要性を感じている物事がそもそも異なる、ということです。

あらためて引用させていただきますが、

この「自衛では何もできることはない」というのは、

「自衛で防ごうとしても、被害者が自分を守ることなど出来ない」

ではなくて、

「自衛で防げたとしても、加害者にも社会にも影響を及ぼすことは出来ない。だから全く意味が無い」

という思想が、根っこに流れているのでは、と思ったのです。


…はい、すみません。まだよく分かりませんよね。
かなり推論混じりではありますが、解説しますと、

・セクハラなどの被害に対して、自衛の策を講じて、もし被害を未然に防げたとしても、加害者は相変わらず世の中にいる。
   ↓
・加害者が社会からいなくならない限りは、こうした被害への自衛を常に続けながら生活しなければならない。
   ↓
・つまり、自衛とは「根本の原因に対しては何らアプローチすることができない代物」ということである。
   ↓
・自衛に何ができるというのか。

という意味ではと。

つまり、私も含めてこのツイートをRTしている人の多くが考えたであろう、「自衛によって、ひとまず被害からは逃れられるではないか」という点に関しては、おそらくこのツイートの中ではほとんど考慮されていない(※)のだと思われます。

(※)あるいは本当に、セクハラといえば、いきなりのダイレクトフィジカル的なハラスメントしか考慮になかった、という可能性も無くはないですが、さすがにそんなことは無いであろう、と信じることにしておきます。​

そして、それがベースにあると考えると、その次の「まるで被害者が悪いような」という部分も納得できるのです。つまり、

---+---+---+---

・大前提として、本件の解決方法は「加害者を余さず駆逐すること」ただその一点しかない。

・自衛とは、加害者を駆逐するどころか何の影響も与えられない場合も多いし、そもそも自衛しても防げないこともある。であれば、そんなものは全く何の意味も持たない。

・しかるに、加害者の駆逐以外の方法の立案、特に、被害者に何らかの労力を求めるなどというのは、さらなる屈辱を与える以外の何物でもなく、被害者にも非があると言っているようなものである。

---+---+---+---

的な感じではと。
もっとはっきり、簡潔に言ってしまうと、

「実際にセクハラが防げるのかどうかが問題なのではなく、防ぐための方法こそが重要なのだ」

という話とも言えます。

若干、手段と目的の逆転のように思えなくもないです。

ですのできっと、自衛行為でセクハラを防げたとしても、ちっとも嬉しくないというか、むしろ腹立たしいのだろうと思います。


だいぶ過激な書き方になってしまいましたが、突き詰めればこの通りなのではないでしょうか。

というか、このくらいに力強い発想でないと、「被害者が悪いというのか」という結論までは辿り着けないのではと感じました(少なくとも私の思考実験ではそうでした)。


屈辱は屈辱として存在して構わない

さて。 
おそらくここまで、相当にムカつきながら読み進んできた、という方もいるかも知れません。

が、そういう方も申し訳ありませんが、もう少しだけお付き合いください。
私は、そうした気持ちを揶揄したくてこんなことを書き連ねているのではないのです。


私も当初、境野さんのツイートを見た時は、自衛を否定するとは何事か!という意見でしたし、正直に言えば、今もその考えは大きくは変わっていません。

あらためて、この種類の話に関する私の見解を申し上げると、

・自衛は可能な限りすべきだが、自衛できなかったことを責めるのはナンセンス。
・被害に遭う「原因」が被害者にあったとしても、だからといってそれが加害して良いなどという「理由」には絶対にならない。イジメと同じ。

というものです。
誓って申し上げますが、いたずらに被害者を貶めるような考えは一切ありません。


私は日頃から、特にフェミニズムの話に関連してですが、

「個人レベルで解決できる問題と、社会レベルでないと解決できない問題とは、きちんと切り分けて考えなくてはならない」

と言い続けてきましたし、どんな問題においても基本的にそのスタンスを貫いています。

この件の自衛も同じことで、自分の身辺に起きる問題は、可能な限り自分自身で片を付けるべきもの、と考えています。


ですが。

世の中は常に、目と耳を覆いたくなるようなニュースで溢れています。

犯罪、威力、圧力、脅威、恐怖といったものに虐げられながら暮らしている人がいて、嘘ではなく本当に実在して、たとえそれが前述の「個人的な問題」であったとしても、どうすることも出来ずに泥を舐めるような人生を送っている人がいることも知っています。


加害者を駆逐するというのは、最短ではなく理想論ではあるけれど、最良の方法の一つだ、という気持ちも理解しているつもりでおります。

ですので、別に屈辱は屈辱として噛み締めて、忘れないでいて構わないと思っています。

それはそれで、本当に率直な心根であり、曲げろだの変えろだのと言われてどうにかなるものではないはずだからです。


その上で。

その上で、あらためて「自衛」というものの重要性と意味を考えていただきたいのです。


自衛は、自分を明日へ繋ぐもの


自衛など必要のない世の中であること。
それは間違いなく理想であり、世に生きる全ての人間が目指すべきゴールであろうと思います。

ですが残念なことに、人類の誕生と同時に、犯罪というものもまた生まれ、今日まで根絶の兆しは見えません。

それに、自衛は単に犯罪だけではなく、不慮の事故や災害からの回避としても使われるものです。

「何を言うか!事故も災害も、万全の備えや安全対策があれば本来は必要のないもののはずだ!なぜ考慮し切れていないのだ!」

と仰る方もいるかも知れません。

まったくその通りです。

まったくもって仰る通りですが、悲しいことに、私たちが生きているこの現実世界では、犯罪も事件も事故も災害も、いまこうしている瞬間にもどこかで発生し続け、どこかで誰かが心身を痛めています。

何度でも繰り返し申し上げますが、自衛とは、必要無いのが望ましいのです。

ですが、それは明日を生きるために、明日の朝日を見るために、今日の私たちにはどうしても必要なことなのです。

たとえそれが、屈辱だと感じられたとしても、です。

***

…といった話を、どう表現しようかと考えていた時に、フォロワーさんがこれぞまさしく、というエピソードを投げてくださいました。

<注>道交法では、道路や状況に応じて、実際には必ずしも歩行者優先というわけではありません。あくまで投稿者さんの幼少時における認識としてご了承ください。

本当に悲しいことではありますが、人間は正しく生きていれば死なないわけではありません。

むしろ、悪意や脅威というものは、正しく生きようとする者を狙って落ちてくることもあります。


どうか、正しさのために傷つかないでください。

自分を衞るという行為は、時にプライドを傷つけ、自分が矮小なものにされたかのような感覚に陥ることもあるかも知れません。

でもそれは、どうしても、生きるために必要なことでもあるのです。


あなたの正しさを、決して否定はしません。

ですから、どうかお願いですから、自衛というものも否定せず、あなた自身を大切に衞ることを忘れないでください。

正しさの犠牲にならないでください。


<最後に>あらためて皆様にお願いしたいこと


単純な話でして、この種の議論においては、

・自衛が必要か否か

と、

・被害者が責められているか否か

は、別の話だとお考えください。
何しろあまりに多いのが、

「自衛が必要、イコール被害者のせいだとしている」

という認識ですが、落ち着いてよく読んで頂ければ、ほとんどの場合においてそんなことは誰も言っていません。

ほとんどの人は、上記の2つを切り分けて考えているのに、「自衛が必要=被害者のせいだとしている」が念頭にあると、どうしてもそうとしか見えなくなってしまうのです。

「常日頃から自衛を強いられている!これ以上どうしろというのだ!」

というご意見も確かにあるでしょう。
もしそうなら、それはそれで怒りや感情に任せてぶちまけるのではなく、丁寧に言語化なさってください。

私も今回、この件で穏やかに話をしてくださった方々のおかげで、ずいぶんと勉強になりました。
ちゃんと話せば聞いてくれる人間は必ずいます。むしろ多くの人が、まっとうな議論をしたいと望んでいるはずです。

重ね重ね申し上げますが、「自衛しろ、というのは、必ずしも被害者を責めるために言っているわけではない」という点を、本当にお願いなので信じてください。

それでも、もし本当に被害者を責めるだけの人がいたら、ぜひ私を呼んでください。

その時は、微力ながら、一緒に袋叩きにするのを手伝いますから。


<了>

最後までご清覧いただき、誠にありがとうございました。



【蛇足】
境野さんにお願いです。私のブロックを解いてくださいw

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