世界一わかりやすい(当社比)多様性の話。
こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。
最近どうも個人的に「多様性」とは何か、について考えさせられることが多く、その中で書いた連ツイが良い反響をいただきましたので、他の話題も絡めつつ、その話をあらためてまとめてみました。
最後までお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
「多様性」とは何か?
昨今よく聞かれるこの「多様性(ダイバーシティ)」という言葉ですが、紐解いてゆくと意外にも「多様性とはこういうもの」という明確な定義がされているわけではありません。
もともとの言葉の意味は、
とのことで、確かに言葉の意味そのものはこうだと思いますが、おそらく現状、SDGsなどで盛んに叫ばれている多様性とは、「多様性を許容できる社会を目指すこと」を指して「多様性」と呼んでいる場合が多いように感じます。
ちなみにそのSDGsにおいても、実は「多様性」そのものはSDGsの目標に直接含まれているわけではありません。
ただ、全体に共通するテーマとしてその「多様性を許容する社会」は在るものとみられ、例えば2030アジェンダの念頭においても「持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現」が目的であるとされています。
そして、そこまでは「フムフムなるほど」と思いながら聞けるのですが。
ここから先、ではその「多様性を許容する社会」とはいかなるものか、になると、定義が無いために解釈に大きな違いが出てくることがあるのです。
「多様性を許容する社会」についての考察
そもそも、この「多様性を許容する社会」とは何なのか、と考えてみた時、私の中の印象としては、「さまざまな価値観・思想・嗜好を持つことが許される社会」という解釈が最もしっくりきます。
もともとの多様性という言葉の意味からすれば、ジェンダーや人種、宗教など、生まれ持ったものであったり、個人の大切なアイデンティティに繋がる属性によって扱いが変わることが無いように、というのがまずあるかと思います。
それに加えて、服装、髪型、持ち物、音楽や芸術の趣味、創作など、自分自身を表現するためのものも、その人にとっての重要なアイデンティティであり、そうした価値観も多様性の社会においては守られるものだと考えます。
明確な定義もありませんので、言葉からイメージされるものとしては、こうした辺りではと認識しておりました。
簡単にまとめるなら、
「これまでの社会において、横並びによる同調圧力などの意識が強かったために認められにくいとされていたさまざまな価値観を認めて、それらを堂々と語ることが許される世の中を目指そう」
という考え方です。
「多様性」についての異なる解釈と混乱
ところが、SNSなどで「多様性」をよく叫ばれている方たちの意見を拾っていますと、
「多様性とは、誰かが嫌な気持ちになるものをひとつずつ無くしてゆき、みんなが気分良く暮らせる社会を目指すこと」
のように捉え、考えている人が多いことに気付かされます。
最近ですと、日経新聞に掲載された「月曜日のたわわ」に関する広告や、原宿キャットストリートにおける緊縛アートのパフォーマンスなどです。
いずれの場合においても、それらの訴求対象ではないと見られる人たちからの強い批判がたびたび寄せられていました。
共通する意識としては、誰かが不快に感じるようなものを公共の場に置いて、人の目に触れるようにするのはやめて欲しい、というのが主旨で、これを表現するものとして
「見たくない表現に触れない権利」
なる言葉まで飛び交う羽目になりました。
例えば緊縛アートの件で言うと、私はあのパフォーマンス自体は単純に凄いと思いましたが、たまたま通りかかっていきなりあれをやっていたら、正直ギョッとすると思います。
そもそもゲージツなるものには素人ですので、芸術性が高いのか低いのかみたいな話も分かりませんし。
でも、あの場所をキャンバスとして理想通りのアートとして展示するには、相当な人員とリソースが投入されていることは容易に想像ができます。
そこまでの手間ヒマをかけているのであれば、少なくとも面白半分、ふざけ半分でやっているわけではなく、高いモチベーションのもとに計画され、かつそれを観覧し評論する需要も少なからずあるのでしょう。
であれば、それは一つの価値観ですから、私の中の好き/嫌いや、理解できる/できないで簡単に論じてよいものではなく、それでもどうしても見たくなければ、目を伏せて通り過ぎれば良いだけのことだろう、と思っていました。
これはよく「スルースキル」と呼ばれて、表現やアートの話というよりも、コミュニケーションやアンガーマネジメントなどにおいて、社会で生きてゆくための大切なスキルとして紹介されています。
ですからアートでも広告でも、自分はその視聴者としての対象ではないのだな、と気づいたならば、見なければいいだけだと思っていました。
ところが、前述の「見たくない表現に触れない権利」に代表されるように、「不特定多数の人間が目に触れてしまう可能性を全て排除せよ」という考えを、ごく当たり前のように持っている人が少なからずいることに気づき、かつそれこそが多様性に配慮した社会であるというニュアンスが見受けられるに至っては、さすがに首を傾げたくなりました。
「多様性」と「ポリコレ」の微妙な関係
前項の最初に書いた話に戻りますが、
「多様性とは、誰かが嫌な気持ちになるものをひとつずつ無くしてゆき、みんなが気分良く暮らせる社会を目指すこと」
という考えは、一見それらしく見えますけれども、これはルールの統一化と排斥によって秩序を保とうとする全体主義的な話だと捉えることも出来ます。
この考え方はいったいどこから来ているのだろう?と色々と考察した末に、ふと、これはポリティカル・コレクトネス(以下ポリコレ)の概念ではないだろうか?と思い当たりました。
本来の意味合いそのものよりも、Wikipediaで紹介されている文章が、ここで言いたいことに近いですので紹介してみます。
この「特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えない」ように考慮された「中立的な表現や用語」なるものが、一部の方々によって、多様性が適用された社会を実現するものであるとされているのでは?と思われました。
もちろん確証は無いのですが、この流れは、SNSでもよく目にする「配慮」という言葉を当てはめると非常にしっくり来るのです。
いわゆる「弱きものに配慮せよ」「マイノリティに配慮せよ」といった論旨ですね。
アートや広告の話に照らし合わせるならば、
「それを不快だと感じる人々への配慮があって然るべきではないのか」
でしょうか。
ストレートに言うならば、
「誰かが不快に感じるようなものなど、公共の場に置いてはならない」
ということになるかと思います。
しかし、これは本当に単純に考えても、とてもおかしな話ですよね。
地球上に80億人弱もの人間が居て、それら全ての人に「不快なもの」をヒアリングし、一つ一つ排斥していったなら、そこに残るものなどあるのでしょうか?
ポリコレの発祥国アメリカでは、政治の世界においてリベラル/保守がそれぞれの考えるポリコレの主張を展開した結果、もはや収拾がつかない状態になってしまっていると個人的には見ております。
ポリコレ+キャンセルカルチャーだけで記事が一つ書けますので、詳しくは割愛しますが、これらに共通するのは「自らが望ましくないと考えるものを排除してゆくムーブメント」だということです。
もちろん、差別の撤廃という面においてはトラディショナルな方法だと思いますが、アメリカの様子を眺めていると、そうした配慮の沼は底無しです。
「どこかの誰かが傷つくかも知れないから」の一言で、何でも排除できてしまう危険性を孕んでいます。
ユニバーサルデザインの適用、とでも言えば聞こえは良いですが、少しでも頭を出せばどこかしらから撃たれ、配慮と是正を要求されるような状態では、新しい文化が生まれにくくなってしまいます。
話を戻すなら、私はこれが「多様性の許容」なるものだとは、どうしても思えないのです。
私の考える「多様性」なるもの
さて、前置きがすっかり長くなってしまいましたが。
私が考える「多様性」なるものについてお話し致します。
***
まず、大前提として。
「何かを好き/嫌いになる権利」 というものは、世の中の誰もが有しています。
けれども、 「他の誰かに、その何かを好き/嫌いにならせる権利」 は誰も持っていないのです。
例えばの話ですが。
あなたがカレーライスを大嫌いだったとします。
言うまでもなく、カレーライスは日本人にとってド定番とも言える超人気メニューです。
ですから、あなたがカレーが嫌いだなんて言うと、
「カレーが嫌いなんて信じられない!」
「そんなこと言わないで食べようよ!」
と言う人が少なからずいることでしょう。
ですが当然ながら、そんなことは余計なお世話です。
そうした声に対して、あなたは怒っていいですし、あなたがカレーライスを好きになる必要もありません。
嫌いなものは嫌いなのですから、そこに理由など要りません。
好き嫌いなど個人の自由です。
***
しかしながら、です。
「好きになれ」を押し付けるのがよくないのと同様に、「嫌いになれ」を押し付けるのもよくないのは当然のことです。
カレーライスを嫌いなあなたが、街でカレーショップの前を通りかかり、香りが鼻をかすめた時に、その店に押しかけて、
「こんなひどい匂いを撒き散らすなんて信じられない!匂いが一切外に出ないようにして!」
と抗議し、困惑した店主が
「いや、ただの食べ物の匂いですから、外に出してはいけないなんていう決まりも無いですし、香りでお客さんを呼ぶ狙いもあるのですけれど…」
と言ったとして、その言葉をあなたが遮り、
「その匂いで気分を害する人がいるのが、どうして理解できないの?!世の中にはカレー好きしかいないとでも思ってるの??」
と聞き分けず、挙句に店内の客に向かって
「こんな気色の悪いもの、よく食べられるわね!」
と吐き捨てて店を出てゆくとか。
そんな権利は、あなたには無いし、もちろん誰にも無いのです。
***
あなたは、カレーライスを好きでないことを咎められるのが嫌だったはずです。
その、何かを好きでいることを強要されるのが苦痛であるのと同じように。 自分の好きなものを否定されたり、嫌いになれと強要されることも、また苦痛なのです。
あなたがどんなに理解し難いものでも、それを好きな人がいる。
それなのに、根拠もエビデンスもないさまざまな理由を付けて、それを否定し、嫌いにならせようとする。
繰り返しますが、そんな権利は誰にも無いのです。
あなたが怒っていいのは、誰かに無理矢理カレーライスを食べさせられそうになった時です。
誰かがカレーライスを美味しそうに食べているのを見た時、ではないのです。
受け流す社会に。排斥ではなく許容を。
「それを嫌いな人がいるから」という理由で何かを無くすのは簡単なことですが、それを誰かが好きだという事実が無視されるのが、私にはどうしても理解できません。
それは、「好き」よりも「嫌い」の方が優先される社会だからです。
たくさんの「好き」が許容される世の中こそを、「多様性の許される社会」だと呼びたいとは思いませんか?
何かを好きでいることを咎められない、好きなものを好きだと堂々と言うことが出来る。
そのシンプルな世界こそが望みです。
あなたの嫌いで、誰かの好きを、そんなに簡単に潰さないで欲しい。
それだけです。
(了)
最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。
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