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たまには自分の我を外して考えてみよう

物事の評価軸を意識的に変更して考えてみると、時々面白い発見に出くわす時があるね♪

人間って、一度思い込んだ評価軸ってなかなか変更しないと言うか絶対に変える気が無いよね~♪
それを少しだけいじってみると本当に面白いですよ~♪

中には、これまで180度違う意見と思って対峙していた意見でも、ああ、そういうことだったのね感がすることもある…

頭の中で考えることは、頭の中だけにとどめている以上は、他人に影響を与えることはないので、大いに時間がある時は考えてみるべきだよね~♪

その意味でディベートって面白いですよね~♪

それはお題を与えられて、各々別の立場に決められた上で、その立場に立って考え、その立場の正当性や、相手の立場の考えの反証を限られた時間の中で展開しますよね~♪

人間って、自分の考えを常に正しいと思う人は意外に多くて、自分の考えの表明や反対意見への鋭いツッコミは得意なんだけど、逆に自分の意見と反対側に立場を置いて、本当は自分の意見側と対峙した時に、どう考えるかって重要なんですよね~♪

物事を大局的に見ていくのか、一点突破で小さな矛盾を大きく取り上げるのか、デーベートの戦略も含めて色々と視点を変え、戦法を変化させ、それでも論理的に納得させられるのかを考え対峙する…

そう考えると、自分の意見と反対側の立場になった時に、どう自分の意見側と対峙し、どう攻めるのが一番得策なのか、見えてくると思います。

そこまで考える事ができると、このディベートのやり方を使って、自分の身近なことから社会問題、政治問題、国際問題…と、色んな問題をみてみる視点というのが身についてくると思います。ただ、その視点を持つためには、それらの個々の問題に関する膨大な情報、その問題の周囲に関する膨大な情報のインプットと精査が必要ですので、むしろこの情報のインプットと精査に多くの労力が必要不可欠になります。(これらが無いと、単なる表面的な意見の言いがかり的になり水掛け論に近い議論になってしまいますね♪)

そうして、相互の立場で実際に生じている時事問題含め見てみると、何故ある立場の人がそのように考え、反対の立場の人がどういう戦術をとっているのか、俯瞰でみることができると思います。つまりは、各々の主張を最大限に活かせる戦術というのも見えてきたりしますので、次はこういう方向に向けて意見が流れることになると予測する能力もついてくることがあります…

さて、このような見方が最低限可能になると、今度は相手の意見の演繹的な論述なのか、帰納的な論述なのかを判断しつつ、相手の論調を、自分の頭の中でゼロベースで(自分の主観をはぶきながら、相手の論調通りに)組み立てて行きます…。そうして、その論調の演繹と帰納を色分けするように頭の中にイメージさせると、相手の論調の骨格が見えてきます。

そうすると、帰納的なところで構成している論述部分の飛躍が、本当にそう理解して良いものなのか疑義が無いのかという観点から探ると、論述の確からしさの判断が可能になります。逆に言えば、ツッコミどころがあるわけで、最低限小さな指摘をすることが可能なのです。曖昧な論述でしたら、いかようにもツッコミを入れることができます。

つまり論述の一つでもある、特に大学や大学院の社会科学系の卒論、修士論文、博士論文なども含めて、帰納的な論述に関わるところはキーになることが多いので、長けた査読者はその帰納的な論述が的確に論じられているのかの確認のための質問や指摘をしてくるわけです。でも、その点は、論理構築した側で予め理解しておくと、その帰納的な論述部分の確からしさを補強できる記述を用意して指摘が少なくなるような対策を施すことができますよね~♪ 

そこまで考えが及ぶと、ある意味、論文発表会での質問や、論文審査においても、余裕をもって迎えることができると思います…

さて、話が当初から大分それてきたので、元に戻りますと、自分の考えというものは尊重されますが、その考えが妥当で、相手に対して本当に対峙できるだけの意見になり得るものなのか、今度は180度違う立場で考えてみて、吟味してみるというのも試してみては如何でしょうか?

その考えたことが、まともであればあるほど、自分の意見は相手にとって感化できない貴重な意見として受け止められますよ~♪
また、論文などを含む論述においても、的確な判断がくだせます…

では、少々長くなりましたので、この辺で…。

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