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やってあげる星人との闘い

「やってあげる」

という言葉を、母はよく使う。
親として当然のことだという理由をつけて、何かにつけて色んなことを代わりにやろうとしてくれる。

ありがたい事も、ありがたい時も、もちろんあるんだけれど
それが毎日当然のように繰り返されることによって、自分ができることを見失い、自分は何もできないと錯覚し、【自己肯定感】という名の【生きる気力】が少しずつ奪われていったのが私です。

もう多分、口癖というか、反射的に言葉に出てしまうんだと思う。

「やってあげる」



例えば会社の帰りに自転車のタイヤがパンクしたとして(実話)、

明日直しといてあげる
あのドライバーがあればできるから
昼間暇だから買いに行けるし
無理なら自転車屋さんに持っていってあげる
置いといてくれればやっといてあげるから
仕事の行き帰りは迎えに行ってあげるし

やってあげる星人

畳みかけるように「やっといてあげる」祭りが繰り広げられて返事をする暇もない。

毎日毎日、母は「お金がない」と同レベルで「時間がない」と口癖のように言っている。

母よ、時間がないのは、やらなくてもいいことをやらなきゃいけないと思い込んでるからなのだよ。我々はもう大人なんだから、切ないかもしれないけど自分で出来ることの方がたくさんあるんだよ。

といつも思っているし、口に出して伝えることもあるけれど、決まってそれは【親の心子知らず】で片づけられてしまう。

母は、娘の私たちは「困っても助けを求めてこない」といつも言うけど
困る前に手を出すから言わずに済んじゃうだけだよ。


親として【自分がやらなければならない】と決めつけてしまっていることを執行するために こうして時々嘘みたいに「暇」に変身するんだから
親として忙しくしていたい だけで、実際は時間がないわけじゃないことも母自身気付いていると思う。

それを温かく見守って受け止めることが娘のやるべきことなのかな。

*****

その日私は「お弁当姉ちゃんの分もついでに買ってあるからうちで食べてく?」と妹から連絡を頂戴し、会社の帰りに近所の妹の家に寄った。


妹の家から私の家は歩いて5分程の距離。(その間に実家がある)

自分で直せる自転車のパンクを母に直してもらうために
歩いて帰れる距離の送り迎えをさせて
母自身も帰るついでならまだしもそのためにわざわざ往復させて本人は妹の家に戻るとか
翌日まで仕事の送り迎えもさせるとか

もういろいろと耐えられない。
歩いて帰れるしパンクも直せるし会社だって自力で行ける。

母は私にそれを「やってあげたい」がために
帰ってくるかもしれない旦那の時間(駐車場)を気にして
お風呂から出てくるかもしれない甥っ子の時間を気にして

私に待てと言う。


いやいや逆に待て。
わざわざ他に支障を来してまで執行することなのか。

ばあばがいると思ってお風呂から出てくる甥っ子や、ばあばが無駄に行き来することで仕事から帰ってきた時に車を停められないかもしれないパパや、余裕をもって恋人の来訪を自宅で待てない私の気持ちは

母の「やってあげたい」気持ちを優先することで、結果的に犠牲になる。


私が歩いて5分の家に自転車を押して帰って、週末の昼間に自分でチェーンを直せば全て一件落着である。

それでも「親として当然の気持ち」を、ありがたく受け入れるべきなのか。


どうしても、そうは思わない。
でもそんな風に考えてしまう私が、クズなのか。


39歳にもなって、自分でできることを親にやってもらう方がよっぽどクズな気がしてならないよ私は。



効率ばかりを重視して生きていてはいけないことなんて、重々承知。

でも、こうして日々、こんなことの積み重ねで私は結果的に時間を拘束されているんだと気付く。母の気持ちを大事にする ということが思考の大半を占めるあまり、失われていく時間と気力が多すぎる。


いろいろ思うところはありつつも口には出さず

最終的に
『全部自分でできるから大丈夫』とだけお返事したものの

じゃ今直してきてあげる
ごはん食べといて

と言って、母は暗闇に出て行った。

私は目の前の肉弁当を、味わうこともなく口に放り込みながら、「今日食べようと思っていた夜ご飯」計画を 黙って自分の脳みその中で消化する。


*****

妹の家に到着する前、私が自転車を漕がずに引いて寄ったスギ薬局は いつもに増して大混雑していた。

その日、仕事の帰りに恋人タミオ君が家に来てくれる予定だったので、私は少しでも早く帰りたくて

それなのに仕事は定時で終われないし、帰りにチェーンは外れるし、暗闇でうまく直せない。
もともと寄る予定だった帰り道のスギ薬局がもう近かったので、あえて暗闇で奮闘せずに引いて辿り着いただけ。

給水がてら明るい駐輪場で直そう と考えた ものの
給水は信じられないぐらい人が並んでいて、早く帰りたかったので諦めた。

そしてそこで妹からのお呼びがかかっていることに気付き、薬局からも大した距離ではなかったので そのまま歩いて妹の家に寄った。

既に私の中ではここまでの段階でいろいろと計画が崩れてしまい 何度となく心が折れかかっていたが、妹が買い物ついでに私の分も買っておいてくれたというお弁当を甥っ子と食べる時間だけを楽しみに、ペダルの回らない自転車を押した。

そこに待っていたのは、やってあげる星人(母)のみ。

甥っ子はママ(妹)とお風呂に入っており
私は毎度のことながら喋り倒す母を前に黙々とお弁当を口に放り込みながら、やってあげる星人のやってあげる攻撃を【私は親不孝者】という呪文を唱えながら断る。

あっという間に外れたチェーンを直した母は満足そうに戻ってきて、私と同じぐらい手を真っ黒にして戻ってきた母が見つけたのは、空っぽのまま横たわった スギ薬局 給水サービス専用のマイボトル。

そして更なる攻撃を仕掛けてくる。

水汲んでないの?明日代わりに行っといてあげるからいいよ
昼間暇なんだから
そのまま置いてってくれたら汲んできてあげる

やってあげる星人


もう。

ありがたいことなのに
思い浮かぶ言葉は、MOWのみ。

バニラアイスかよ。



空のペットボトルをリュックに忍ばせて会社に行くことも、そもそも通勤ルートなので用がなくても目の前を通るスギ薬局に寄ることも、私は全く苦ではない。

ついでに必要な買い物が出来ることも、アプリや紙のクーポンを駆使して節約生活に奮闘することも、2リットルの水を汲んで重くなったペットボトルを背負って帰ることも、私にとってはとても大事な、日常に必要な苦労である。

ずっとやりたかった【自分の世話を自分で焼く】行為に過ぎない。

そのことを、0から100まで説明したとて
母は私に

少しでも早く帰ってこれるように
重い荷物を持たなくて済むように

「やってあげる」と言う。

私自身は、やりたいことをやれて満足なのに
それを頑張ることを、母は「かわいそう」だと言う。

多分その価値観は、永遠に交わらないし
私の気持ちが理解してもらえたところで、母の やってあげたい病も治らない。

そうだな、もしかすると「やってあげる」という言われ方が苦しいのかな。


母はきっと見返りを求めてなどいないだろうけど。

昔から言われてきた、悪気はないであろう母の言葉が、ずっと自分のやりたいこと、言いたいことを我慢する癖になっていた。

「自分(母)だけが頑張らなきゃいけない」
「アンタは自由でいいね」

祖父母の介護も、それに伴う母のメンタルケアも、金銭的な援助も物理的な手伝いも できる限り頑張ってきた。

高校時代、唯一の楽しみだった部活もずっと休んで
土日も予定を入れられなくなって友達とたくさん疎遠になって

自らの意志でそうしてきたつもりではあったけど、心のどこかではずっと【母がそうして欲しがるから】という理由で動いてきた。


無意識に、本能的に、【母のために】生きてきたからこそ、母からの愛情が【見返りを求めている】ように感じてしまうのかもしれない。


頼んでもいない事を、なんなら断ってもやってくれる事を、正当化されてしまって、自分でできることをやってもらう日常が繰り返されることで、実際に困った時に頼りたいという気持ちが薄れてしまう。
助けてもらうことに抵抗があるというか。

そうしたくない、という母に対しての私の意地かもしれないんだけど。

どん底に落ちていく自己肯定感をせめて一般レベルに上げるには、まず 自分でできることは自分でやる という最低ラインをクリアしたかった。

その思いが強すぎて、ちょっとぐらい甘えればいいことすら、受け入れられない自分がいる。


*****


このことを考え出してから

恋人タミオ君は、私に何かしてくれる時 決して「やってあげる」とは言わないことに気が付いた。

「~やっとくね」
「~してもいい?」

と、あくまで自分の意志として動いていることや、こちらの意思を尊重してくれているのが言葉で伝わる。

だから私は、心置きなくタミオ君にはお願いごとができるんだろうか。困ったことの相談や、悲しい時の報告も、気兼ねなくできるのは そういう根本的な理由もあるのかもしれないな。

言葉選びって、そう考えると大切だな。

細かい言い回しまでを深く受け止めたことはなかったけど、タミオ君の言葉や話し方が優しく感じるのも、たまにしか口にしない自分の意見がちゃんと伝わってくるのも、普段から相手の気持ちや言葉を受け止める姿勢がちゃんとあるからかもしれないな。



なんだか母を全否定するような記事になってしまったが、そうではない。

そうではない、と あえて言葉にしておかないと落ち着かないレベルで罪悪感はある。ただの気付き事項なのに。


私は母から、愛されている実感はある。
娘として大事にされている実感もある。

私個人の人生を、一人の大人として信用して、手を放して見守ってもらえている実感が ない。

そして母はきっと、私から愛されている実感がないと思う。
母として大事にされている実感は、わからないけど。

自分を犠牲にしてでも大事にしてきたつもり。
でもそれがダメだったんだろうな。
母が私にそうしてきたことで、私が辛いのと同じで。

そうすることが正しいと刷り込まれたおかげで、生きづらくなっているだけの話で。



お互い、本当の意味で自由になれるのは
きっとどちらかが死ぬ時。

それまで、どうしたら少しでも生きやすくなるのか、考えよう。



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