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Ⅰ幼少期~学童期;貧乏、暴力、カルト。底辺でファンタジアかまして優等生に成り上がる直前まで。

いま、ケーブルテレビで映画『ドリーム』を見ながらこの原稿を書いています。久しぶりに子どもたちの体調が良くて、お出かけしてくれたので、つかの間の自由。

アメリカの黒人差別が酷かった時代に、
黒人少女キャサリンは小6から大学に飛び級するほどの高い知能、とくに数学的な才能の持ち主でしたって、これすごい話だけど実話かな??

私はなんたって実際底辺でファンタジアかましてますので、
そんな天才でも成功者でもないんだけど、
やっぱり下層に生まれついてしまった人間が
学校というコミュニティにおいて
力を得るには、
勉強ができることが一番。
それは体験でよく知っている。

道東の、さびれた雰囲気の漂う波止場の近くで生まれました。

故郷のイメージは、ほとんどが不吉な真っ黒な霧と怖いサイレン。
怨念が渦巻く遊郭。
まっとうに稼いだわけではない、札束。
つまり、沸いてくる生活費。
そしてごくたまに、チキンの匂いと、おしゃれな音楽や映画と、
部屋に流れるホワイト・クリスマス。
その理由は、文章の最後の方にも書きます。

その、地獄9割天国1割、
「普通」が存在しない海辺で、

ろくに働いたのを見たことがないギャンブル好きの中卒の親父と、

街で一番の高校を出ただけあってお勉強は出来たのに
男を見る目がさっぱりだったのか、ギャンブル好きなダメ男と結婚してしまった

気の毒な天然母の間に生まれました。

親父がなんでそこまでダメ親父だったのか、未だに謎は残りますが、
なんでも

幼くして生母が若い男と蒸発し、
異常に厳格な父親に殴られながら育ち
すっかり拗らせてしまった。らしい。

彼の兄弟もそんな複雑な生い立ちですからそれぞれに問題は抱えていたものの、
普通に働いている叔父、叔母もいたし
親父の1つ上の姉なんかは、遊郭に売り飛ばされた後結構昇りつめて
最終的に資産家に水揚げしてもらったりして
親父以外はそれぞれの境遇で努力して成果を出していたようです。

私の最初の男性像は、こんなダメ親父ですから
その影響を色濃く受けた人生を歩んできたわけで
幸せな家庭とかしっかりした責任感あるお父さん、夫がどういうものなのかわからなくて
若いころは、相当親父を憎んでいました。
そして、そういう人に限って
同情を引くために死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ言いつつ非常に長生きするものです。
いまは、彼の母親のしたことが許せない気持ちの方が大きいですが
もしかしたら父の母の夫も相当なDV野郎だったのかも知れなかったり、
それでも子どもをおいて若い男と逃げる女の心理が一ミリも理解できなかったり
結局は、世の中にはとことんダメな人たちっているのであって
そういう自分も、まったく完ぺきとは程遠いわけで、

まあ、いまは、もう
「しょうがないかな」のひと言に尽きるんですけどね。

母は母で、カトリックの家に生まれ素材は善人で
お勉強もよくできてリーダーシップがあり
文化度もやや高めだったのに

ダメな男と結婚して貧しい生活に徐々に侵され、
生活が苦しくて万引きまがいのこと(時効)をやらかしたり
ロザリオもぐちゃぐちゃのままタンスの隅にほっぽらかして、
少しずつ少しずつ病んでいきました。

要するに私、今で言えば「親ガチャはずれた」人なのかもしれないです。

ダメ親父は就職活動もせず、パチンコ、競馬で当ててやろうと
わずかな収入にも手を付け、
大負けすると家で暴れ、仏壇に八つ当たりして先祖を呪い、
ほとんど毎日のように
「世の中が悪い」「この環境が悪い」「この街は呪われている」
と呪文のように言い続けたため、

私は18歳で親元を飛び出してから、じつに10年くらいは帰省というものをしませんでした。
正直、30年以上経った今でも故郷に帰るのは気が重いです。

かたや弟は、なんの抵抗もなく地元に残ることを選びました。
私と弟の、性格はもちろんのこと
親からの扱われ方はかなり隔たっていたんですが

弟はおおらかで、親父の言うことも聞き流せるスキルを持っていました。

私は無駄に真面目で忠実なところがあって

親父の毎日の呪文をもろに真に受けて育っちゃったんですね。

今は頭では冷静に捉えているつもりなんですが、

親父が「呪われている街」と連呼した故郷のイメージは、

ずっと真っ黒な霧と不吉なサイレンの音に包まれています。

それで、ほとんど収入のないような貧しい生活の中、母のパートの給料だけで私と3歳下の弟を養っていけるはずがありません。

困ったダメ親父と天然母は、前述の遊郭出身の叔母夫婦に頼りました。

叔母夫婦は豪邸に暮らし、一男一女を設け、
そのうち女性の従妹は私の幼少時すでに大学生で

家の商売(高利貸し)を嫌い、私や弟のところに来ては可愛がってくれた恩人でもあります。

勘のいい方はお気づきでしょうが、
私たち赤貧家族の生活費は、この従妹が家から持ち出して母に渡してくれていたのです。
当時の片田舎で3階建ての豪邸に住む叔母一家が、どれほどの資産をもっていたのかはわかりません。
また、従妹が持ち出して母に渡してくれていたお金の出どころが、
従妹のお小遣いだったのか、
高利貸しの金庫から胡麻化してちょろまかしていたものなのかも、
いまとなってはわかりません。

ただ、まともに働いている様子のない親が、ときどきこっそり
若い従妹から茶封筒を受け取っているのは知っていました。

知っていたくせに、それが何なのかはっきりと親に聞けずにいました。

いま思えば、これが私のじつに子どもらしくない
良くないところだったと思います。

だって、親がきちんと働いている様子がなくても、
大好きな従妹の手から魔法の茶封筒とお金が現れて
それで何とか暮らしていけるんだから

「父さんはなんで働かないの?」
とか
「叔母さんの家からお金もらっていいの?」
とか
「母さんはどうしてあんな父さんと離婚しないの?」
とか

そういう当たり前の疑問を、
最も本音をぶつけられるはずの親にぶつけたり
おかしいことをおかしいと感じたり言えたりする
ごく普通の感覚が徐々に鈍麻していきました。

そして、従妹からいただく生活費のおかげで、
極端な贅沢はできなくても
誕生日、クリスマス、お正月など
年中行事はかろうじてきちんとやれていたわけです。

とくにクリスマスは、母の生家がカトリックだっただけに
質素ながらも雰囲気だけは十分でした。
家の中には聖歌や洋楽が流れて、従妹が選んでくれた大きなケーキがあって、
私も弟もクリスマスが大好きでした。

そんな大好きなクリスマスに
「子どもらにプレゼント買ってやりたくて」という理由で
パチンコして大負けした親父が暴れることもありました。

そんな、狂ったバランスの上でギリギリ成り立っていた私たちの生活に
やがて限界が訪れます。

一見いままで通りのようにも見えた暮らし。

ロザリオをほっぽらかして大して信仰心のなかったはずの母、
ダメ親父、
そして大好きな従妹までが
皆さんがよく知っているカルト宗教にはまってしまいます。

私は一人離脱するのが怖くて
内心とは裏腹に、同調するふりをしながら

「ここから抜け出さなくては」という一心で、
猛勉強を開始しました。

かといって所詮は凡人ですから
「ドリーム」のキャサリンのように早々と成果なんて出ません。

母に嫌味を言われたり、
なかなか成果が出ずに人知れず泣いたりしながら

中2の定期テストで、
塾にも行けず目立たなかった貧乏人が
いきなり学年一位を獲りました。


周囲の私を見る目はがらりと変わり、
いっぽうで
私の家族には何の変化もなくて

世の中には、自分の努力次第で変えられることと
どんなに頑張っても変えられないものがあるということを知りました。

いまとなっては、この私の
「中学デビュー」が、良いことだったのか
悪いことだったのかはわかりません。

ただ、はじめて自分の手でつかんだ、ほんの小さな成功でした。

つづく。




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