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第八十五話 かき氷を食べながら

もくじ

 民宿の敷地から通りに出ると、海から引き揚げてきた人々がぞろぞろと歩いていた。家族連れから若者グループまで、客層は様々。ついさっき海水浴場の監視体制を解除するというアナウンスを聞いたから、通りに人が溢れる時間なのだろう。

 ごちゃごちゃした狭い道には、港町ならではの味わいがある。小さな祠があったり、干網を積んだリアカーが停めてあったり、庭先にフジツボがたくさん付着した蛸壺を並べている家があったり……。手押しポンプ付きの井戸や消火栓ホースを収めた赤い格納箱なども、カメラがあったらシャッターを切りたくなる対象だろう。

 人の流れに逆らって歩き、飲食店や土産物屋が何軒か立ち並ぶ一角で魚屋を見つけた。店の前に出来ていた人だかりに興味を覚え、中を覗いてみる。蛍光色の札が氾濫する店内には、パック詰めにされた魚の切り身もあるが、丸のまま売られている魚も目立つ。一皿いくらの小アジやイワシのほか、夏の使者タカベや真帆たちが釣ったショゴ、松浦たちが釣れなかったイサキもある。ゴムの前掛けをしたおじさんが観光客らしき中年夫婦に勧めているのは、カイワリというアジ科の魚。スーパーではまず見かけないが、味はシマアジと同じくらい良い。ここでは一匹三百円。天然シマアジに手が出なくても、この値段なら気軽に買えるだろう。東京では、築地にでも行かない限り手に入らない魚なので、ぜひ買ったほうがいいと思う。

 一本二百円というヤガラの値段も、あってなきがごときもの。本当に高級魚なのかと疑いたくなる。やや小さいにしても、この値段は安いだろう。こういう掘り出し物が見つかるから、地元の店は面白い。

「絶対買いだと思うけどな。こんなにデカくてこの値段だぞ」
「持って帰ったら、みんな何て言うかな」
「何か言うも何も、ぶったまげるだろ」

 合宿中の大学生らしき三人組が見下ろしているのは、細長い発泡スチロールの箱に入ったシイラ。魚偏に暑と書くことからわかる通り、夏の魚だ。怪魚じみたいかつい顔に、黄色い下っ腹が特徴的。獲ったばかりの頃は背中も青緑色で、より夏っぽくカラフルな見た目だったはず。一メートルはあろうかというビッグサイズなのに、たったの五百円。発泡スチロールのケースのほうが高くつきそうだ。

 耳に入ってくる会話によれば、彼らは庭にバーベキュー設備のある旅館に泊まっているようだ。みんなで網を囲んでシイラを丸焼きにしたいと話し合っている。面白いアイデアだと思う。これだけ大きい魚なら見栄えがするし、うまく焼けなくても、いい写真くらいは撮れるだろう。

「ほかの魚はどうする」
「色々あるけど、どれが美味いのかな」
「訊いてみようか」

 三人がねじり鉢巻きのおじさんほうを見たところで、真一は店を出た。

 港町の魚屋だけに、全体的に値段が安く、珍しい魚も多かった。個人的に気になったのは、テングダイという魚。イシダイに似た縞模様があって、ヒレは黄色い。熱帯魚みたいな形と色遣いをしていたが、味はどうなのだろう。見たことのない魚だから、当然味もわからない。ただ、売られていたということは、それなりに食べられる魚なのだろう。

 通りの喧騒を避けて、さらに狭い裏道へ入った。ごちゃごちゃと人家が立ち並ぶ街並みは、真一のアパート周辺と似てなくもない。ただ、マサキの生け垣や庭に植えられたハマユウなどは、海辺の街であることを感じさせる。

 もう一つ角を曲がって、通り沿いにかき氷の旗が揺れているのを見つけた。夏になると見かける、波と千鳥の氷旗。ポケットに小銭があることを確かめて、赤い 「氷」 の文字を目指す。

 雑貨屋とも駄菓子屋ともつかない店だった。昔ながらのなんでも屋。あるいは万屋。庇の下に所狭しと吊るされたり、並べ置かれた海水浴用品や花火の間を通って店内に入ると、一瞬、闇の中に放り込まれたように感じる。しかし、すぐに目が慣れて、通路沿いの棚にひしめく駄菓子に気づいた。プラケースにぎっしり詰まった酢イカや串カツ、同様のふ菓子にラスク、楊枝で食べる 「青りんご餅」、常温で保存が利く 「ヨーグル」、フィリックスガム、うまい棒、ミニコーラ、チョコバット、粉末メロンソーダ……。子供の頃に食べたものばかりだ。未だに売られていることに少し感動する。

 レジの前に人はいない。店舗と一体になった家の戸口に、すいませーん、と呼びかけると、すぐに返事があり、白と水色の玉暖簾をかき分けて、割烹着を着た老婆が顔を出した。観光客慣れしているようで、真一を見ても驚かない。沓脱石のサンダルを履いて店の床に下りたところで、真一はレジ裏の黒板を指さして、かき氷下さい、と告げた。黒板には、白いチョークでかき氷の種類が書いてある。イチゴ、メロン、スイ、レモン、ブルーハワイ。真ん中の 「スイ」 とは 「みぞれ」 のこと。カップかき氷でよく見るあれだ。かき氷通はこれを頼むらしい。

 どれにしようか、と黒板をじっと見つめて考える。

 イチゴとメロンのかき氷は、昔、家庭でよく食べた。団地の自宅に安い手動のかき氷メーカーがあって、夏になると母親が押入れから引っ張り出してきた。レモンとブルーハワイのシロップは、あまり売っている店がなく、縁日の屋台で見かけたことがあるくらい。ただ、レモンは味が想像できる。スイもカップかき氷でお馴染みだ。となれば、残る選択肢は一つ。

 品が出来上がるまでの間、花火でも見ていようと思って、店舗の外に出た。店先に並んだバラ売り花火の箱を覗き込む。ドラゴン、トンボ、ねずみ花火、パラシュート、と懐かしい花火が目白押しだ。蛇玉や煙玉など、昼夜関係なく楽しめる花火もある。値の張る打上花火は、観光客向けだろう。爆竹やかんしゃく玉も一緒に売られているが、これらは花火のカテゴリーに入るのだろうか。子供の頃からの素朴な疑問だ。

 数分経って、お待ちどおさま、と店の奥から声がかかった。店内に戻ると、さっきの老婆が給食のお盆みたいなトレーを持って立っていた。銀色のトレーごとかき氷を受け取って、再び外に出る。店の中にもテーブルがあったが、薄暗くて蚊に食われそうだったので、表の縁台で食べたかった。縁台の脇には葦簀が立て掛けられ、風通しのいい日陰を作ってくれている。

 ガラスの器に山盛りにされたかき氷は、底の青いシロップが透けて見えて富士山みたいだ。慎重に匙を入れる。うまく山を突き崩すことに成功し、シロップが馴染んだザラメの氷を口に運ぶ。最初の一口は痛いほど冷たい。不思議な味だ。ソーダ? ミント? ラムネ? まったく見当がつかない。イチゴとメロンのシロップを混ぜると、スイカの味になったような気がするが、あれのほうがまだわかりやすい。

 道端の片陰を伝って、貫禄たっぷりの白猫が歩いてきた。正面を通りかかったところでこちらに顔を向けたが、人の姿に慌てる様子もなく再び前を向くと、のそのそと歩いて、マサキの生け垣の隙間から向かいの民家の庭に入っていった。斜め前の木製電柱でアブラゼミが鳴いている。ジリジリと暑苦しい声。夏の四時台は、夕方と呼ぶにはまだ早い。

 レストランHORAIで働き始めて、約四ヶ月。
 早いものだ、と思う。

 当初は、次の仕事が見つかるまでの繋ぎのつもりだった。期待していたものなど何もない。貯金を切り崩さずに収入を得られれば、それでいいと思っていた。

 民宿の窓辺で、今の自分を若者らしいと思った。
 言い換えれば、今の自分は 「青春」 を生きている。

 十代の頃もそれなりに楽しい毎日を送っていた。学校帰りにボウリングに行ったり、ファストフード店で時間を忘れて駄弁ったり。休みの前日は、そのまま誰かの家になだれ込んで、夜を明かしたこともしばしば。ただ、そうした日々が 「青春」 だったかというと、ちょっと違う気がする。今ひとつ物足りない。青春未満の 「日常」 と言ったほうが実態に即している。

 彼女がいた時期もある。付き合い始めた頃は、浮かれていたこともあった。ただ、全体を通して見れば、のんべんだらりとした関係で、特段輝いてもいなかった。何となく付き合い続けて、何となく別れた。

 社会人になって 「青春」 は一層遠いものになった。他人との関わり方も、自分に求められるものも、すべてが学生時代とは違う。過去とは違う環境で、過去とは違う人間として生きていかなくてはならなくなった。俗に言う 「学生気分を捨てて」 というやつだ。

 ある時点までは 「青春」 に対する憧れも抱いていたかもしれない。

 ただ、一方で、今のコースに乗った以上、それが手の届かないものだということも知っていた。

 ゆえに、強く希求することもなかった。
 自分には縁がないと割り切って生きてきた。
 だからだろう。いつの間にか、欲求も憧れも霞んでいった。
 そして、自分が 「若者」 だという単純な事実さえ意識できなくなった。

 どこかの軒先で風鈴が鳴っている。アブラゼミの声と違って、こちらは暑さを和らげてくれる。

 かき氷の山は、いつの間にか小さくなって、すべてシロップの青に染まった。水っぽい氷を一匙掬って口に含む。冷たさに慣れた口は、もう痛みを感じない。

 思いがけず巡り合った青春。どこにでもありそうで、ずっと手の届かなかった人生の季節。何者かであることを強制されず、ありのままの自分でいられる時間。

 八月いっぱいでバイトの期限が切れる。
 久寿彦たちともお別になる。

 名残惜しいけれど、いつまでもここに留まってもいられない。元の場所へ――「日常」 へ帰っていかなくてはならない。

 だが、夏はまだ終わらない。
 もうしばらく、この世界に浸っていたい。
 せっかく見つけたのだから。
 それくらい許されるはず。

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