震災クロニクル4/1~5(39)

  避難から帰ってきて数日が過ぎた。夜はとても静か。コンビニも24時間営業はしていない。そもそも閉店している店がほとんどだ。コンビニすらこの街には1軒しかない。その1軒も時短営業で17:00には閉まってしまう。ガソリンスタンドはチラホラ営業している。しかし、お昼には閉まっていしまうところと、開店しても2時間足らずで行列ができてしまい、やはり閉店してしまうところばかりだ。僕は給油のために早起きして、ガソリンスタンドに行く。配給や灯油販売もネットで配信され、そこに向かう。何とか生きている。自分が3月まで働いていた公共施設は支援物資の配給で賑わっている。皮肉なものだ。被災して多くの住民が避難し、街の喧騒は跡形もなく消えたはずが、支援物資の配給になると、これほどの人がまだこの街にいるとは。
 震災前はこの街は7万人の住民がいたらしい。震災が起こり、原発事故の影響で一時は1万人を切った。現在はどの程度戻ってきているのかはまだ不明だ。未だに他の件に避難をしようとしている家族もいるだろうし、戻って来ようとする人たちもいるはずだ。結局のところ自分の身の回りの状況しか自分には分からない。この街がどうなっているか、この県はどうなっているのか、そんなことに答えてくれる人はいったいどこにいるのだろう。毎日毎日、ガソリンの心配と食べ物の心配をネットの情報で右往左往しながら何とか生きているだけである。それだけで精いっぱいだった。
義援金給付の受付も始まった。ある小学校の体育館が使われたが、そこでも多くの人が長蛇の列を作っていた。自分もそこに並んだが、2時間以上の待ち時間のあと、やっとのことで手続きをした。

毎日こんなに震災に振り回されるのか。
本当に嫌だ。これからのことを考えたい。もっと先のことを考えたい。

そんな気持ちは毎日の情報でかき消される。

とりあえず生活用品の配給を受けないと。

食料の調達はどうしよう。

ガソリンスタンドの情報はどうだろう。

幸いにも自分次の仕事は決まっていた。4月下旬から始まる。この街から50キロ離れた山間の小さな仕事場。おそらくその仕事場付近はこの地域よりも圧倒的に放射線量が高い。原発から離れていても、風に乗って放射性物質が飛散した地域だからだ。飯舘村の近くだから本当は住めないレベルだろう。しかし行政区画が異なると隣町ということになり、避難の指示が出ない。
本当におかしな話である。放射線が県境や町境を気にするだろうか。そんな事お構いなしで、風に乗って飛散するのである。しかし、私たちの社会は地域行政ごとに震災対応が異なる。その地域の人々の健康の影響など関係ない。すべては地域行政の大きな生き物の一部として私たち住民は生きなければならないのだ。運命共同体のようなものだ。

いや、そんなことは言うまい。その区画のおかげで自分は仕事が得られた。

この思いは心の中にしまっておこう。

これから赤十字の義援金や東京電力の仮払いが始まる。もっとこの状態は混乱するだろう。きっと想像もできないような大混乱になる。

そんな漠然とした自分の予感は結果的に的中した。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》