戦略的モラトリアム【大学生活編】⑯
大学2年目が始まる。1年目の生活の繰り返しがまた始まると思うと、だらけた生活の中にぴりっとスパイスの利いた毎日が送れるのかと思うと、あと3年のタイムリミットなんて、はるか遠く先のことで蜃気楼のはるか先のようなことであるかのように思えた。楽な講義かどうかが問題ではなく、面白そうな話を聞そうなものに参加しよう。自分にとって履修登録はそんなものだ。大学の魅力はそこの一点と図書館の充実だけだ。
留学に向かう人は海外渡航の準備で忙しいらしい。いや、もはや日本にいないのかも。入学式で沸き返った翌日の大学構内は見慣れない外国人やキャリーバッグを持った集団が忙しなく動き回る。
履修登録が済み、またあの毎日が始まるのか。ムシッとした関東の春は夏の装いを帯びる。新入生のガヤガヤを見ると、昨年の自分を見ているようだ…とはならなかった。
自分はそこまで浮かれていなかったはず。毎日のグータラを味わっていただけだ。何がそんなにうれしいのか?楽しいのか?
友達とワイワイガヤガヤしたいなら、高校時代にもできたはず。大学ならではのイベントではないのだ。それとも新しい友人との毎日が楽しいのか?
それはどうだろう?こんな短期間にスグに友達とかできるものだろうか。もっと穿った見方をすれば、ただ雰囲気に酔っている自分自身を楽しみたいだけなのかもしれない。それを批判するつもりは勿論ないし、楽しんでいただければよいと思う。ただ自分の楽しみや生活を妨害しなければね。
大学の講義には「論」「説」「概論」「特講」とつくものが多い。はじめは特に意識をしていなかったが、大学生活2年目になり、大学の常識一つ一つに疑問を持つようになっていた。別に批判的な疑問ではなく、素朴な「なんでだろ?」のようなものだ。
調べていくうちに、何となくこうなんだろうなと整理ができた。
「論」はその教授の思想が強い。
「概論」もちろん基本的な内容と全体のあらすじのようなもの。教授の主義主張をもとにしているので、ここでの話を鵜呑みしてしまうと教授と同じ色に染まってしまう。(気がする)
「説」ある節について解説する。もしくは物語調にいろいろな説を紹介する。どの「説」に共感するかは学生次第。
「特講」ある一部にフォーカスして詳細に解説や考察する。
実際に講義を受けてもそんな感じになる。ただ、「論」だろうが「説」だろうが教授の我が強い。
そりゃそうだ。その道のヲタクだから。その分野のマニアックなことまで考察している。一番面白かったのは「ジェンダー」の専門家がNHKの「新選組!」の一部を引用して、褌から西洋式の下着に変えた土方歳三が近藤勇にパンツの性能を見せようとする場面だ。ここをピックアップして同性愛を歴史を説明している。
いやいや、これはただの大河ドラマですよ。そもそもそんな目線で私たちは見ていませんww
流石というか、ジェンダーの専門家はどんなことでもそういう目線で見ているのだなぁと「呆れ50%」「尊敬50%」で聞いていた。
いや、これはひとつのしょうさ一つの証左なのかもしれない。ものの見方によっては全く別のものに見えるという。
大学に来て一つの心理のようなものを感じた。2年目の大学は昨年と変わらずただのうのうとハコモノのの象徴としてデーンとそびえている。
明日もまた大学生のふしだらな生活が始まる。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》