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戦略的モラトリアム⑯

一九九九年   九月上旬    天気 秋雨    場所 某地方都市精神状態 澱み

「受験の天王山」と言われている夏期講習が終わり、受験という日がいよいよ現実味を帯びてきた。周りの空気がピリピリしていたから、そんな緊張感を僕も感じてしまった。面談の日も増え、どうやら予備校側も合格者を多数出したいという意気込み充分であるようだ。
一方、僕は結局のところ、何の危機意識もなく、ただ大検の合否だけを毎日気に留めていた。あと三週間くらいで結果が通知されるはずだ。それまで、この胸の澱みは決して取れることはないだろう。それは覚悟していた。そんな中で僕は将来の道筋について大検合格を見越して考えることなどできるわけもなかった。とはいうものの、仮に僕が普通の浪人生だったとして、今頃、将来についての道筋を決められていたかというと、それも怪しい。

「前回の模試の結果どうだった?」
ヤスの声だ。
「ん?まあまあ。」
適当な返答。
「相変わらず、危機感ないなあ。いいかげんにその秘密主義どうにかしろよ。で、結局、どこ受けるんだよ?」
「遠いところだよ。」
「だからそれはどこだって?」
「そうだぁ。都内かな。」
「都内って……。それだけ?」
「それだけ!」

いつの間にか、僕とコン、ヤス、ケイは所謂『友達』ってやつになっていた。はたから見ればきっとそうだ。だから僕の唯一の拠り所になってたんだけど、そいつらにだって僕は自分の全てを晒すわけにはいかなかった。批判は目に見えてるし、それに対抗できるだけの言い分もない。そして何より、嫌われることや奇異な眼で見られることは絶対に避けたかったんだ。特にこいつらにはね。

講義の内容は徐々に過去問を中心とした筆記テスト時間と化していた。僕はそんな中で一人だけスタートラインにすら立っていない自分の不甲斐なさを悔いた。
「今日の過去問は完璧!」
「マジで?俺はやばいかも。」
こんな会話に、僕はだんだんと心を痛めていった。実感を伴わないことに感情移入して話すことなんてできないからだ。僕にはまだ大学の受験資格すらないんだ。もしかしたら今年は受験できないかもしれない。そんなやつが大学入試の過去問を解いたからって、それが何だっていうんだ。どうにもならない葛藤とうっとうしい秋雨が日に日に僕の熱を奪っていくのを実に辛辣に噛み締めていた。

家と予備校の往復は通学時間が長かったものの、それほど苦痛ではなかった。相変わらず続いている淡々とした時間。決して無意味ではなく、充実していたと思う。でも不思議なことに大学受験が近づくにつれ、その充実感が薄らいでいくことをこの頃、はっきりと感じられるようになってきた。
その心境の変化がなぜ起こるのかは分からない。でも誰にも言わないことを条件に正直に言えば、受験に対して冷めてしまったのかも……。実際、僕の将来に対する恐怖っていうのは決して消えることはなかった。だから僕はまた臆病になったのかもしれない、将来にね。

三週間後、僕の元に大検の合格通知が届いた。

呆然と空を見上げるといわし雲。

流れる雲に乗って、次の季節が顔を出していた。それに恐れおののきながら、僕は目を閉じ、息を殺して、じっと空気の温度を確かめていた。
冷たい……。ひんやりとした秋風は僕に何かの終わりを告げているような気がして、たまらなく悔しかった。

家族に合格通知を見せると、いつ以来だろうと思わせるぐらいの満面の笑みでその合格通知を喜んで眺めていた。ひと時の団欒……。

どうしてだろう。ちっとも嬉しくない。

不安感と恐怖で僕の胸はいっぱいになって窒息しそうな切迫感が僕を絞め殺そうとしていた。だから、僕はその何年かぶりの家族との直接的な意思疎通を満喫することはできなかった。
部屋に戻ると、音楽をかけた僕は高校のときから聴いているお気に入りのミュージシャンのCDを戸棚の端にしまった。
流れていく速さへの戸惑いと恐怖は僕を容赦なく襲ってきた。僕はそれに耐えられず、蹲って眠りについた。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》