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三人の父へ―アレクサンダーペイン『ホールドオーバーズ』 その2


 

はじめに


 前回は、映画『ホールドオーバーズ』が、ポールとメアリーという二人のイエスの誕生を描いた映画であると述べた。今日は、この映画が、先行するどのような映画を踏まえているのか、について考えていきたい。

Ⅱ 三人の父へ

1 チャールズ・チャップリン『モダンタイムス』

 劇中、怒ったポールがアンガスを追いかけ、アンガスは身軽にポールをかわし、ポールの運動不足をからかうシーンがある。ラストは、ポールが運転する車が、引っ越しのための荷物を載せたトレーラーをけん引しながら、直線道路を走って行き、映画は幕を閉じる。ユーモラスな追いかけっこに、直線道路を行くラストの構図は、一人で車に乗って旅立つか、恋人と二人で徒歩で旅立つか、という差こそあれ、チャップリンの『モダンタイムス』(1936)を思わせる。

『モダンタイムス』のラストシーン

 放浪者チャップリンにまつわる追いかけっこは、例えば『犬の生活』(1918)にもみられるチャップリン映画の定番ともいえるものだ。『モダンタイムス』では生活のために盗みを働く少女と盗まれた側の追いかけっこがある(予告編の1分23〜1分35秒)。管理する側の人間が、管理される側の人間を追いかけるさまを描くという点で、本作はチャップリンの系譜に連なるものといえる。

 『モダンタイムス』は、資本主義社会において、労働者が機械の一部分のように扱われ、尊厳が失われていることを風刺している。本作は、資本主義社会において、持てる者の子らが札束にものをいわせて大学に進学して、教育を受け、メアリーの息子のような、持たざる者の子らがベトナム戦争に駆り出され、命を失っているさまを批評的に描いている。本作は、1970年を舞台にした『モダンタイムス』なのだ。

2 オーソン・ウェルズ『市民ケーン』

  アンガスが父親のいる施設を訪問した証拠になってしまうのが、スノードームだ。本作の中で、最も印象的な小道具として用いられているといえよう。アンガスの父は、アンガスからスノードームをプレゼントされることで、家に帰りたくなり、施設の職員に暴力を振るうようになる。

 スノードームが印象的な小道具として用いられている映画といえば、真っ先にオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941、原題: Citizen Kane)が思い浮かぶ。
 ケーンは新聞王として成功を収めるが、スノードームを握りしめ、「バラのつぼみ(rosebud)」という謎の言葉を残して息を引き取る。スノードームは、雪が降りしきる中に小さな家がある、というものだった。ケーンは、幼いころ、雪の中、そり遊びをしていたときに、母親と無理やり引き離され、育ての親にニューヨークに連れていかれた。このとき遊んでいたそりに書かれていたロゴマークが「バラのつぼみ」だったのだ。つまり、彼は大金持ちになったものの、生まれ故郷における母親の無償の愛を、最後まで追い求めていたことがわかる。

『市民ケーン』に登場するスノードーム
(スノードーム美術館オンラインショップホームページより )

※ケーンがスノードームを手に息を引き取るシーンは、6〜8秒に登場します。

※スノードームは、予告編の52秒あたりに登場します。

 息子であるケーンが、生まれ育ったわが家を懐かしむよすがとしていたスノードームを、本作は、父が結婚し住んでいたわが家を懐かしむよすがとするという形でパロディ化しているのだ。

 アレクサンダー・ペインの『市民ケーン』へのオマージュは、今に始まったことではない。ペインの長編デビュー作は、『Citizen Ruth』(1996)である。シンナー中毒で酒浸りの女性ルースは、何度も逮捕されてきたが、一向に改心する様子はない。ある日、妊娠をしてしまった彼女は、中絶を決意するが、ひょんなことからアメリカの中絶反対派と中絶擁護派の争いに巻き込まれてしまうという話である。成功者として上り詰めた男性市民を描く『市民ケーン』を、社会の最下層にいる女性市民を描くという形でパロディ化してみせている。

 文学を専攻していた学生時代、ある教授は「作家の処女作には、その作家のすべてが詰まっている。」といった。これは映画にも当てはまることであろう。「処女作」という表現は、男性と女性に異なる性規範が適用されていた時代の遺物だと思うので、私はこういおう。「映画作家のデビュー作には、その作家のすべてが詰まっている。」と。

3 ルイ・マル『さよなら子供たち』

 劇中で気になったのは、ナチスに因んだブラックジョークが連発されることだ。軍隊並みに規律正しい生活を送らせようとするポール、未成年は飲酒が禁止だからと、酒を用いたデザートの提供を断固として拒むウェイトレス…。あげるときりがないが、否定的にとらえられるものはみな、ナチスの比喩を用いてこき下ろされるのだ(予告編15秒あたりでは、アンガスがポールに「ナチス残党かよ」と悪態をついています)。

 当初、残留者の一人だった少年は、メアリーのことを、「使用人だから、同じテーブルにつく必要はない。」といい、韓国人少年を日本人と勘違いして、からかいの言葉をかける。このような職業や人種による差別を口にする少年は、「クンツ」というドイツ系の姓である。

アンガス、クンツ、韓国人少年パク・イエジュン

 一方、クリスマス休暇に入る前のチャペルでの説教で、聖職者は、「クリスマスおめでとう。そして、ハヌカも。」とユダヤ教徒に配慮した発言をする。 また、ポールはアンガスに対し、"entre nous”というフランス語を多用する。これは、二人だけの間のことだという、いわば秘密の共有を意味する言葉である。

 なぜ、否定的なものはナチス・ドイツの比喩を用いて語られ、ドイツ系の姓を持つ少年は人種差別を行い、説教ではユダヤ教徒への配慮がなされるのか。二人の間に秘密が共有されるとき、なぜフランス語が用いられるのか。 

 私は、本作がルイ・マルの『さよなら子供たち』(1987)を下敷きにしているからではないか、と思う。『さよなら」は、ナチス占領下のフランスを舞台に、ブルジョワの子弟が通う寄宿舎学校における、クリスマス休暇後の数週間を描いた、マルの自伝的な作品である。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞している。


 学校にジャンという少年が転校して来る。成績優秀だけれど、謎めいた彼に、優等生の主人公ジュリアンは、ライバル意識と興味を持つ。そして、彼がユダヤ人であることを知り、その秘密を共有する。校長であるジャン神父(予告編の31秒あたりで、少年たちに聖体拝領を施しています)は、レジスタンスに参加しており、ジャン少年を学校にかくまっていたのだ。ゲシュタポが密告を受けて乗り込んできて、ジャン少年もジャン神父も連行され、収容所で命を落とす。 
 
 映画は、フランスのブルジョワジーが、キリスト教徒を自称しながら、ナチスによるユダヤ人迫害を見て見ぬふりをした、その史実を40年以上経ってから告発している。豊かな才能を持ちながら、ユダヤ人であるというだけで、命を絶たれてしまったジャン少年、そして、イエスに倣って、ジャン少年に無償の愛を示し、その結果、自らの命を犠牲にしたジャン神父に、心から哀悼の意を示している。

 本作が、マルセル・パニョルの『Merlusse』(1935)を下敷きにしていることは、すでにWikipediaでも言及されている。クリスマス休暇中の寄宿舎学校を舞台に、嫌われ者の教師Merlusseが取り残された生徒たちの監督をし、生徒の理解を深めていくさまが描かれた映画だという。

義眼の教師Merlusse

 だから、パニョルの影響が一番強いのだとは思うのだけれど、ナチス・ドイツの悪行を繰り返し想起させるつくりになっており、秘密が共有されるとき、フランス語が用いられることは、『さよなら子どもたち』へのオマージュもあるのではないか、と思う。

 第二次世界大戦下を回顧し、フランスのブルジョワジーのエゴイズムを批判する『さよなら』に対し、本作は、ベトナム戦争下を回顧し、アメリカのブルジョワジーが、キリスト教徒を自称しながら、カーティスのような持たざる者を前線に追いやった、そのエゴイズムを告発しているともとれる。

 富裕層の子息で、成績優秀だけれど、家庭環境に恵まれず、寂しい思いをしている、というアンガスの設定は、富裕層の子息であるジュリアンと、ユダヤ人であるがゆえに家族と離れ離れになり、寂しい思いをしているジャン少年のミックスのようにも思われる。アンガスはおねしょした年下の韓国人少年パクに、救いの手を差し伸べる優しさを持つが、ジャン少年もまた、おねしょしたジュリアンをからかったりせず、話を聞いてやる優しさを持つ。

 ジャン神父はジャン少年に愛を示すことで、命を失うけれど、ポールはアンガスに愛を示すことで、仕事を失う。『さよなら』の生徒たちと、神父及びジャン少年は、学校と外界の境界となっている扉の前で別れるが、ポールとアンガスが別れるのも、同じく境界である扉の前だ(予告編の1分24〜27秒と、1分43〜47秒をご覧ください)。

おわりに

 こうしてみてくると、『ホールドオーバーズ』という映画が、これまでの映画の歴史の地層の上に、先行する映画に敬意を示しながら作られていることがよくわかる。私は私の映画経験をもとに本作を論じたけれど、他の方がこの映画を観れば、また違った作品への目くばせが見て取れるかもしれない。

 文学作品は引用の織物であるといわれるが、映画もまた、引用の織物であり、先行する作品に学ぶことによって新たな作品が作られてゆくのだと思う。歴史教師のポールが過去から学べ、というが、これは映画製作にも当てはまる名言であると感じる。

 また、映画を観る側も、先行する映画作品に触れれば触れるほど、新しい映画をより豊かに、より深く観られるようになる。私は、映画史上に屹立する名だたる作品をすべて網羅しているとはいいがたいのだけれど、少しずつでもそういった映画を観ながら、新作も楽しんでいきたい、と思う。


 長い長い映画レビューに最後まで付き合ってくださって、ありがとうございました。

 みなさんがご覧になった映画で、先行する映画を踏まえることで、より理解が深まったものは、何ですか? noteの記事にして教えてくださるとうれしいです。

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