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タイム・マシン \ H.G.ウェルズ 

今回は初めての書評をやってみたいと思う。先日ジャズ喫茶に出掛けた時、2軒回ったがコロナの影響で両方とも閉まっていて、舌打ちしながらベースショップに寄るとそこも定休日だった。仕方がないので憂さ晴らしに駅の書店に寄ると、ウェルズ ― と言っても映画監督のウェルズではなく文筆家の ― の「タイム・マシン」を見つけた。以前読んだクルジジャノフスキーの「未来の回想」で少し触れられていたので名前だけは知っていた。手にとって読んでみたものの、換気機器の雑音と、英会話のお試し動画の音声と、妙にへんてこりんなことをやっているBGMのジャズのせいで全然頭に入ってこない。しょうがないので何も上手くいかないことの腹いせに買って帰った。で、一夜明けてから一息に読んだ。

読んでみた第一印象としては、今までの読書歴のせいもあろうが少々大げさに感じられた。また話の運び方が少々短絡的に思える箇所がいくつかあり、あまり好印象というわけではなかった。が、最後の一文でそんな細々したことはどうでも良くなった。

しかし、 二つの奇妙な花が私を慰めてくれる。この花は今は萎びて茶色に変色し、形もくずれてしまったが、それでも、人間から知性と力強さが退化してしまった未来社会においてさえ、感謝とまことしやかななさけが、人の心の中に生き続けている証拠だからである。

H.G.Wells, “Time Machine” 1929

私はこれを読んだとき感動した。おそらくこれが1895年の感慨なのではなかろうか。今まで読んだ小説や見てきた映画からの想像だが、これが人々がもっと、少なくとも今日の日本よりは濃密に関わり合いながら暮らしていた世界、もしくは産業革命から百数十年が経過した世界が31歳の作家に ― 当時のイギリスの平均余命が45.75歳 ― に危惧させたことではないだろうか。なんてことを勝手に思ったからだ。翻って見るとこの小説が刊行されてから約100年が経過した現在はどうだろうか。Twitterなどを覗いてみると、思いやりもヘッタクレもないような皮肉と罵倒に満ちている。YouTubeのライブ配信のチャットやコメント欄を覗くと、もうストレスの捌け口にしかなっていないようではないか。直接会うこともなくただ意見という名の罵倒を浴びせ合う、くだらないサークルがそこにあるように思えてならない。

ウェルズの描く未来が当たっているのかどうかはあと80万2千4百9年年生きなければ分からないが、今、この小説を読んで100年前の先哲の考えに触れてみるのは有益なことかも知れない。

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