「私の中心/コア:自立」
7月からnoteに記事を書き続けて来た過程で自覚した、自分の中で大切にしている3つのこと、自立と理屈と成長の一つである「自立」について、過去記事も参照しながら、少し掘ってみようと思います。
自立:大人である事
私の根っことして大切であることの一つである自立。それは、まさに私にとって1人の「大人」であることそのものであり、子供の頃から葛藤を繰り返しながら模索してきた概念です。
金銭的自立を前提として、精神的成熟と責任ある行動が、自立したという状態であり、私にとって「大人」であると言えます。
精神的成熟
元来の性根:
幼児性(自己中心性/自己顕示欲/勝ち負けへの執着)を昇華させている事自分の過去:
過去の出来事(トラウマや犯した間違いなど)を昇華させている事他者との関係:
優越意識/劣等意識を昇華させている事
そしてそれは、横の弱みと縦の弱みを克服し、自分を見失うことも自分を自分で縛って足を引っ張るようなこともないと言う事と言い換えることができます。
横の弱み:見失い人
つまり、誰かが作った物差しや自分自身の身勝手な物差しによる、他人との比較優劣に囚われて自分を見失い、いつまでたっても今の自分が何者なのかがわからないという、横の弱み。
いわば「見失い人(みうしないびと)」縦の弱み:自縛人
そして、もう一つは、過去から周囲の人に見せて来た自分や自分の行動の正当化や整合化を図ろうとしている事そのものがもう一つの真の弱み、つまり自分自身の過去に囚われて変われないという、縦の弱み。
いわば「自縛人(じばくびと)」
責任ある行動
公共的存在(誠実/公正/謙虚)である事
未来に対し責任ある行動をしている事
よく言う、「今だけ金だけ自分だけ」は、責任ある行動とは言えないわけです。対極にあると言ってもいいでしょう。
また、縁あって幸いなことに五体満足でこの世に生まれ出たこの身体と命、責任持って大切に全うするのが当然ですし、子供たちや社会に対して、迷惑をかける時間や負担が少ないよう、生きていきたいと思うわけです。
まさに目指せピンピン長生きコロリです。もちろん先のことは分かりません。今夜事故に遭うかも知れませんし、寝たきりになってしまい、すぐに死ねないかも知れません。それでも日々の努力を怠らないことが未来に対する責任ある行動の1つと言えるでしょう。
大人は質の悪い依存をしない
宗教との関係
新興宗教にまつわる事件をきっかけに書いた記事ではありますが、宗教とは行動様式です。何を信じて生きようとそれは自由ですが、周囲に迷惑をかけない、できれば、周囲に有難がられる信心である限り、何も憚られるものではないと思います。しかし、依存度が高くなってしまうと、人を救うための宗教が人を苦しめる宗教になってしまいます。
私は無神論者ではありませんし、日常生活に溶け込んでいる宗教関連儀式も結構あり、大切にしていますが、依存はしていません。
人やモノやコトとの関係
生まれてしばらくは親に依存して生きていますし、独立してからも、生きていくうえでは、常に人やモノやコトとの関わりがなくなることはありません。ただ、宗教に依存してしまう人がいるように、様々な依存が存在し、ときにそれは病的だったりします。
自立した人は、病的に依存するようなことはありません。何かに寄りかかる必要がないからです。あえて言うならば、常に、より良い社会に貢献すべくより良い自分であるために日々を送っているという自分自身への誇りに依存しているかも知れません。
自分に立脚して生きていると言えると思います。
一方、仕事や普段の付き合いなどで感じるのが、明確な根拠があるわけでもなく、どこかのキャスターが言ったようなことを、そのまま自分の考えであるかのように発言したりする人の多さと、何か触れてはいけないものがあるかのような空気を作り、周囲に同調や忖度を求めるような風土です。
中身がないゆえに、中身を何かに依存しているとしか思えない、まるで家畜です。
かつて働き蜂と称された高度成長時代を生きた人は、村を会社に置き換えて生きてもらうという意味で、それで良かったのかも知れませんが、もはや、それでは国際的には戦えません。家畜として諸外国からさらに搾取され続けるだけです。
そして、中身があったとしても、使わなければ、ないのと同じ。アウトプットしなければ磨かれることもなく独善まっしぐらです。
不安や不満を抱えながら村社会に依存して生きているという意味では同じだと言わざるを得ません。
共倒れ日本人のまま死ぬのは嫌
あくまでも、ここでいう「自立」というのは、私の行動様式を形作る基本骨格の一つであり、他人に強要するつもりは全くありませんが、誰もが何かに依存し、しかも行き過ぎてしまうリスクがあることは自覚していただいたほうがいいかなと思います。
ただ、少なくとも、みんなで失敗しようと足を引っ張りあう共倒れ日本人のまま死ぬのだけは本当に嫌です。
理屈無くして自立なし/成長なくして自立なし
こうやって掘ってきて思うことは、あくまで私の話しではありますが、「理屈無くして自立なし、成長なくして自立なし」という事です。私は世捨て人でも仙人でも僧侶でもないので、精神論だけで生きているわけではありません。世俗にまみれて生きているただの凡人です。そんな世俗にまみれた凡人の私には、ぼんやりした精神論では、きちんと自分の言動や心理状態を振り返って正す事はできませんし、世俗にまみえながらの成長無くして依存を解消する事などできません。
そして、いうまでもありませんが、自立無くして、少しでもより良い社会に貢献できるより良い自分であることはできないという事です。
少しスッキリしました。あっ、これも小さな成長です。
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