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めんどうくささを抱きしめる ─3Dプリントワークショップ 「人という字は」 レポート

1:とかくめんどうな人の世で

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はじめに

人と生きることはめんどうくさい。
相手の表情を読み取って、間合いを読んで、ちょうどいいところに言葉を投げて、言葉では追いつかない部分は手とか表情筋を動かすことになったりすると、とても体力を使う。うまくできないと落ち込むし、知らない人とたくさん話した日はどっと疲れる。FabCafe Kyotoにインターンとして参加しているぼくも、この記事を読んでからお店に来ようとしてくれている読者のみんなを爽やかな笑顔と完璧な接客で迎えられるかといえばかなり不安だ。慌ててカフェラテをひっくり返してしまうかもしれない。

めんどうくさいものは、自分ごとから遠ざけてしまえば楽になる。お客さんが来ても忙しそうなふりをして知らんぷりすることもできるし、全部をマニュアル化して必要な会話だけにしてしまえば、シャイなぼくでも緊張してコーヒーをこぼしたりせずサーブできる。けどそれはあんまり(というか全然)ヘルシーな感じじゃない。

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FabCafe Kyotoにいるスタッフの人たちはみんな世話好きで、いい意味でおせっかいな人たちばかりだ。来てくれた人にはまずあいさつをして、店内奥にある工作機器の説明をしたり、その時やってるイベントのこと、京都・五条エリアの話題に花を咲かせたりする。電源に困ってそうだったら延長コードをそっと差し出すし、レーザーカット用のデータに不備があれば親身になってクリッピングマスクを解除したりする。(Fabcafe Kyotoではデータの依託制作は受け付けてないから、できればちゃんとしたデータを作ってきてほしいけど!) 
体系的な接客のマニュアルがあるわけじゃなく、とにかく場や人の顔を見渡しながら、来てくれた人が困ってないか、「ここにいてもいい」と思えるためには何が必要かを、みんな考えながら働いている。何かをしていていいし、何もしてなくてもいい。そんな場にするための微妙な間合いを、いつも見つめている。

冷たくてシステムっぽい感じにするとスムーズだけど、それはそこで生まれたはずの関係を見えなくしてしまう。Fabcafe Kyotoも、なるべくいろんな文化やアイデンティティの交差点でありたくて日々様々な企画を打ち出している。ジョインしてまだ3ヶ月足らずのぼくだけど、この場所の意味を少なくともそう捉えている。だから、たとえわざわざカロリーを使うやり方でも、FabCafe Kyotoのスタッフはみんな、この場で起こるいろんなことを自分ごととして引き受けて、当事者であろうとしている。

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人類学者の松村圭一郎さんは、こうした金銭を伴わないギブの姿勢を「贈与」と呼んで、逆に対価を払うやりとりのことを「交換」とかって呼んでる。後者の方がちょっと冷たいイメージだ。

贈与がもたらす「つながり」は、面倒くさい。近代社会は、それを避けるように、個人の行為を「市場」や「国家」の線引きに沿って割り振り、社会の中に垣根をつくりだしてきた。これは市場の話、これは国の仕事(あるいは他国の話)、あなたの私的な領域はここまで、といった具合に。人と「つながる」ことは、その人の生の一部を引き受けることを意味する。(「うしろめたさの人類学」松村圭一郎)

ぼくらにはいろんなことがわからない。
蛇口をひねれば出てくる水やゴミ置き場に捨てた袋、今朝したうんちも、こないだIKEAで頼んだ本棚も、どこから来てどこへ行き、どう作られているのか詳しく知らない。さっき寄ったコンビニでお金と引き換えにおにぎりを手渡してくれたお兄さんが何を考えているのかも、効率よく線を引かれた社会で生きるぼくらにはわからないこと、わからなくていいとされていることばかりだ。

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さっき、めんどうなものに蓋をすれば楽になるって書いた。いちいちゴミの経路は辿ってられないし、棚は作るより買う方が楽。けどそれはつまり大きなシステムの中で生かされてるだけだし、もっと能動的に生きると楽しいかも、という内容を、言葉を替え語順を整え、このnoteでは何回も書いてきた。だって、コインや書類一枚でコミュニケーションを片付けることが必ずしも豊さにつながるかっていうと、微妙だから。
だからぼくらはその先に人間らしい生き方があると信じて、めんどうでも手を動かして、人と関わって、環境やものの成り立ちに触れてみることが大切なんだろう。

たとえば、人という字を組み立てるとかして。 

  

2:「人」たるための実践

2-0:人という字は

かつて金八先生は言った。「人という字は、人と人が支え合ってできている。人は人のあいだで生きることで人間になれる。」
このnoteでも、作ることや生きることについての実践を取り上げてきた。石を見つめたり、自分で棚を作ったり、身の回りのものを組み替えたりつなげる実践を通して自分たちの可能性は開かれていく。それが「善く生きる」ことにつながると書いてきた。
ここでひとつの実践をしてみよう。
自分たちの根本に立ち返り、このめんどうくさい人間をかたちづくるプロセスを見つめてみたい。

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何かと何かを組み合わせて、人という字の支え合うオブジェクトを作ってみる。好きなものを持ち寄って、木片と組み合わせて、採寸、モデリング、ジョイントを3Dプリントするところまでを一日で行うワークショップ。人をつくるってそういうことかよ、とも思われるかもしれないけど、やってみたらこれがけっこう楽しかった。いよいよワークショップの内容に移ろう。

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3Dプリンターワークショップ「人という字は」 開催概要
■ 開催日時|2022年5月14日[土] 
■ 会 場 |FabCafe Kyoto
■ 参加者数|5名
■ 主 催 |FabCafe Kyoto
■ 運営協力|FabCafe Hida

2-1:自己紹介、木との出会い

ひよこのボールペン、全然切れないペーパーナイフ、ヴィンテージもののゲームボーイ。当日、会場の机には参加者の様々な私物が並んだ。「父から中国土産にもらって」「ある作家さんの作品として購入したもので」「特に思い入れはないけど目についたから」。持ち寄ってもらったものは大切だったり大切じゃなかったりしたけど、そこに参加者の人柄や生活が垣間見えるようにしてワークショップは始まった。

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今回、モデリング初心者の方々に3Dプリンターとの距離を縮めてもらう方法として、お気に入りのものを持ってきてもらった。未知に思えるマシーンも、辿ればぼくらの生活と地続きのものだ。なるべく身構えてほしくはない。持参品を自分の分身と思って、どんなプロポーションで立ってほしいかを練り消しやテープなんかで試してみる。

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ちなみに今回、木材の調達に協力をいただいたのは、林業とのプロジェクトが盛んなFabCafe Hidaの蔵出し広葉樹というサービス。メインの流通には乗らない材木を、1g=1円で販売している。クリやブナ、クルミなどあたたかい質感とずっしり心地よい重さがパーツにぴったりで、この前京都に来てたとき少し仲良くなったFabCafe Hidaの岩門さんに連絡して1kgほどを購入させてもらった。現在、飛騨でFabマッチョを目指しているという彼のレポートがとてもいいのでよければ読んでみてほしい。
Fabマッチョへの道 初級編〜新工芸舎、FabCafe Kyotoから学ぶ

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2-2:やわらかモデリング

持ち寄ったものの紹介と木片を選び終えたら、採寸・モデリング作業に移る。今回「人」という字を組み立てるためには、気をつけるべき点があった。それは、採寸した値をもとになるべくものの造形を単純にすること。今回のwsでは、完璧なプロトタイプを作るよりも3Dモデリングに親しんでもらうことに重点を置いていたため、完璧な形態模写を行っていない。長さ、高さ、幅、直径、おおよその角度。もののプロポーションを保つ最小の要素を抜き出して、机の上にあるものと「だいたい」同じものを画面の中に再現させる。ボールペンのクリップとか、細かい凹凸とかはいったん無視しよう。断面の形をかまぼこみたいに押し出せる機能や、重なった部分をくりぬける機能など、これからモデリングを始めるときの基礎となる部分をはじめにレクチャー。なにやら複雑に見える3Dモデリングが、実は「点」「線」「面」の単純な要素から構成されていることに気付けるような設計を心掛けた。

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木片のモデリングも同様に、精緻に複製する場合は角度の入力やいくつかコマンドを扱う必要があったけど、パソコンの画面に木をあてがって見当をつけてもそれなりに角度を合わせられることを発見していたぼくは、Rhinocerosの開発者が卒倒しそうなこの画期的な方法でwsを進めることを事前に上司に確認していた。

SDIM9556のコピー

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画面の中に人という字が再現できた。ここまできたら、ブーリアン減算(重なった部分をくりぬける機能)でジョイントから持参物と木片をくり抜けた人から出力、お昼ご飯という流れになった。だいたい親指くらいのサイズの造形物なら、約20~30分で印刷できる。

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2-3:プリントしてみる

溶けたプラスチックがモンブランみたいに積み重なって造形物が出来上がる。その過程にはスライサーと呼ばれるソフト上でデータを輪切りにする行程があって、モンブランの絞り道として効率の良いルートを自動で導き出してくれる仕組みだ。プリントミスや造形物がうまくフィットせず再出力した人もいたけど、一日の中で試作のサイクルがどんどん回せることもFDM方式プリンターのいいところだろう。樹脂の海にUVライトを照射させて少しずつ固める光造形式ではこうはいかない。

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SDIM9593のコピー

また、印刷に適したデータの向きや積層のピッチ、せり上がる形は造形しにくいことなんかも、3Dプリンターに触れてみて初めてわかることだ。データを放り投げたら勝手に作ってくれるわけじゃなくて、根気よくサポートの付き方を調整してみたり、樹脂の定着を良くするためにステージに養生テープを貼ったり、そういうフィジカルな要素が3Dプリンターを扱う上では欠かせない。(もちろん性能によって様々だけど)
そうしてできあがった「人という字」は、どれも個性に溢れてて、最高の出来だった!

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3:さいごに

3-1:作る責任と壊し方

なんとなく未知に思えてた技術も、やってみればこんな感じで、ひとつひとつは地道な作業だ。途中、「これくらいなら自分でもなんかできそう」と呟いてくれた人がいたのが嬉しかった。どんな条件のときにうまくいかないか、マシーンと仲良くなるにはどうしたらいいか。「自分でもなんかできそう」「やってみたら楽しい」という気持ちの先には、これからもっと長い道が続いている。その入り口で、みんなと一緒にうろうろすることができてよかった。

ぼくらは、環境の成り立ちを再構築できる可能性に開かれている。自分で人という字を組み立てれば、当たり前だけど分解の仕方も分かる。自分で作った棚ならどこにビスを打ったかがわかるように、どう作られているかがわかれば壊し方がわかる。壊し方がわかると、組み直し方だってわかるかもしれない。表面の仕上がりを滑らかに造形したいとき、造形時間を短縮したいとき、環境負荷をなるべく小さくしたいとき、仕組みが分かってさえいれば対応できる。積層痕を目立たなくする処理を考えればいいし、フィラメントを砕けば再利用できるかもしれない。そもそも3Dプリンターを使うことが適切かどうか、立ち止まって考える必要があるかもしれない。つくることが楽しいと思えたら、次はいま手元にある素材や技術が適正かどうかを考えてみる。それがつくる者の責任だし、なんにも考えずにたくさんものをつくっていい時代はとうに終わってる。「なんかおもしろそうだけどよく分からない」段階から、「どうしたらもっとうまく作れるのか」「これを作る先になにがあるのか」「これを作る必然性はどこにあるのか」。そうやって成長しながら、肯定的な気持ちも批評的な気持ちも併せ持つことができたら、いろんな「つくる」はもっと理性的で豊かになるはず。ぼくらがカフェに不思議なデジタルマシーンを置いて、小さなものづくりの仕組みを作り出そうとしている理由も、たぶんそこにある。

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3-2:めんどうくささを抱きしめる

ぼくらを飼い慣らすシステム ── インフラとかコンビニとか行政とか ── も、最初は自分たちのちいさな不便とか不満から生まれている。そうしてできた大きな流れがしだいにぼくらの生活を区分けするようになって、ぼくらは作ることや人と関わることを諦めてしまった。ショッピングモールに行けば何もかもが手に入って、社会の網の目からこぼれ落ちてる弱者は見て見ぬふりしてればオッケー、みたいな具合に。その仕組みに自覚的になることで、今度はぼくらが大きなシステムに作用することだってできるはずだ。ビスを打つことで、だれかにおせっかいを焼くことで、なにかを組み合わせることで、その可能性はどんどん開かれていく。

生活を見つめ直すことは途方もなくめんどうくさい。たとえばそれは人と関わることとか、ジョイントをひとつモデリングすることと同じくらいに。
自分を見つめて、他者を見つめて、お互いにうまくはまるポイントを窺いながら、ジョイントになる共通項を見出だそうとたくさんの言葉や仕草を重ねる。それはとても骨が折れる作業だし、偉そうに書いてるぼくも実践できてないことばかりだ。自分の器の大きさも相手との距離もノギスで測れたらいいけど、まだ時代はそこまで便利じゃない。(仮にそうできたとして、それは本当に便利なのか?)けど、諦めずにそのめんどうくささを抱きしめてみることが大事なんじゃないかって思う。

いろんなことを自分事にして、ひいひい言いながら全力で生きるのも悪くはないし、たぶんそっちの方が、人間らしくてずっといい。そう信じて、今日もぼくは細心の注意を払いながらカフェラテを運んでいる。

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