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俺はまばゆい庭を見た

俺の父は教師だった。
春樹という、いくらか頭の弱かったらしいかつての教え子から、鉛筆書きの年賀状が毎年届く。
父は三年前、急に旅立ってしまったが――
おととしもきたし、去年もきた。

先生
あけましておめでとう

はみだすほど大きな字で書いてある。
あとは、

にわの木にみかんをさしたら、めじろがきて食べました

とか、

青いながれ星においのりしました

とか。

先生ごきげんよう

それがいつも決まった結びで――

ことしもまたくる。俺は疑いもしなかった。
自分あてでもないくせに、心のどこかで待っていた。
それなのに、町じゅうの松かざりがとっぱらわれても、からっ風がいくらふいても、年賀状はこなかった。
出さないのか。出せないのか。
答えのわからない問いは熾火おきびのようだ。いつまでもくすぶって、いらいらと赤く燃えたり、黒い不安の煙をただよわせたり、すっかり俺をまいらせた。
答えを知らなきゃ――
夢に声が降ってきた。声の主は自分なのか、だれなのか。朝ぼらけ、ふとんのなかで心は決まった。一月最後の日曜日だ。行ってみよう。飛びおきた俺は電車を乗りつぎ、去年の表書きとにらめっこしながら、知らない町をさがしあるいた。
みつけたのは、冬の太陽に守られた小さな庭の小さな家。ゆっくりドアがあいて、女のひとがふしぎそうに俺を見る。このひとが春樹のお母さん? 年賀状のこと、父の死、訪問のわけを大いそぎで話す。ふっと、母なるひとの表情がやわらいだ。
「どうぞ」と部屋に通される。窓のそとは庭がまぶしい。めじろはあの木にとまるのだろう。古風な茶簞笥の上で一枚の写真が俺を呼ぶ。笑っているのは思春期の少年だ。
「それが春樹です」
紅茶がそそがれ湯気が立つ。
「去年のくれ、死にました」
俺はカップを皿にもどした。かちゃんと小さな音がした。言葉だけを受けとめたかった。
静かに、春樹のお母さんが語りはじめる――

おさない春樹の声は今も耳にのこっています。
ボールあそびが好きな子でした。
ぽん ぽこ ぺん
歌うような声で調子をとりながらボールをついて……
ぽん ぽこ ぺん
ぽーんと言ってわたしに投げます。こちらもぽーんと返します。春樹のよろこびようったら、ありません。
あんなうれしそうに笑っていたのに……。
たのしいあそびを利用できないかなって、わたし考えたんです。
いち、にい、さん
そう言いかえて、数をおぼえるのに使えないかと。
いち、にい、さん
しい、ごう、ろく
教えても教えてもだめでした。
頭のなかでからまった糸をほぐせなくて、しまいに春樹は泣きました。
だんだん心はふさがれて、お花の前にしゃがみこみ、じっとしているようになりました。
黙ったまま、なにを思っているのやら、涙をこぼしているんです。
小学校へあがり六年をへても変わりません。ながいあいだ、春樹の心は暗いもやにとざされたままでした。
けれども光はきっとさします。
中学生になってほどないある日、春樹は一輪の花をもって帰ってきました。
お母さん、と春樹はわたしを呼びました。
このお花、原っぱで先生とつんだの。「よろこびのお花」なんだって。先生が教えてくれたよ――
ほんとに何年ぶりでしょう。はれやかな笑顔が春樹にもどっていました。
先生――あなたのお父さまが名づけたいくつもの花。
よろこびの花
やさしさの花
しあわせの花……
そんな名前の花をつめばつむほど、春樹の心はひらかれてゆき、新鮮な風がふきわたりました。
ぽん ぽこ ぺん
ぼくね、みんなとボールであそんだの――
春樹に友だちができました。先生が見守ってくれました。
しあわせの光が、春樹をとおして、あふれていました。
けれどもその輝きは、あまりにはかなく消えたのです。
中学校を卒業した春樹を病魔が襲いました。
神経がおかされて、あらゆる筋肉がやせ衰えてしまう病気です。
一年たらずで歩くこともままならず、車いすに乗りました。
やがてしゃべることも、飲みこむことも、息をすることさえかなわぬ日がやってきます。
いやがる春樹を説得し、人工呼吸器を装着することに決めました。
入院の前日、不意にあなたが訪ねてきたように、先生がここをおとずれました。
三年前のあの日――先生は天に召されるほんの少し前だったのですね……。
先生は春樹の病気をご存じありませんでした。
「よし」とうなづいた先生は、かばんからボールをとりだし、車いすの春樹を庭へおろすと、腕を支えてボールをつかませ、おっしゃいました。
「投げてごらん」
ボールは春樹の手をこぼれ、草の上をゆるゆるところがります。
先生がひろって投げ返したボールは、梅の実がぽとりと落ちるように、春樹のひざかけに落ちました。それを支えられた腕でほうり、またひざかけで受けとめます。
わたしは、ボールの姿を借りた何か尊いものが投げ返され、受けとめられ、ふたたび送られてゆくさまをそこに見ました。光は四辺に充ち、ふたりをつつんで明るみました――

いつしかめじろが鳴いている。
俺はまばゆい庭を見た。よろこび、やさしさ、しあわせが丸い形となって手から手へ届けられた小さな聖地。光のさなか、俺は春樹、そして父の存在をひしひしと感じていた。うちでは言葉すくなに本ばかりよんでいた父とはちがう、輝くような父に、俺は初めて逢った。

「これを」
春樹のお母さんが俺にさしだしたのは、父にあてた春樹の最後の年賀状。これを書いたひるさがり、春樹は眠るように死んでしまったという。俺はたいせつに受けとり、きよい光にもてなされた家をあとにした。

先生
あけましておめでとう

天国から舞いおりた年賀状は、また天国へ届くのだ。




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