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遠い歌を

めぐみ深い太陽の翼も届かない谷底でした。
そこに、紅しじみよりも小さな花がひとりぽっちで咲きました。
花はおぼえていなくても、谷の上の花畑を風がわたり、ちょうどはじけた種をさらって、深い深い影の底へ追い落としたとき、その運命はさだまったのです。

石のすきまから這いだすように芽ぶき、ささやかな葉をひろげ、かよわい光をただ天にもとめ、ようやくひらいた花は、あたりを見まわしました。
そして見わたすかぎり、照らし合う仲間のだれもいないことを知りました。
そこらじゅうの石ころはつめたく黙りこくって、なにひとつ口をきいてくれません。
谷川の水はごうごうと音こそすれ、あわただしく流れ去るばかり。

花はさみしさの淵から、いつも上を見あげていました。
崖にはさまれた細長い空に綿毛のような雲があらわれては消えてゆきます。
たまさか小鳥が飛びかうことはあっても、舞いおりてくることはありません。
それでも雨あがりの空がぱっと明るんだ折なぞ、ふと聞えてくるものがありました。
風が運ぶ花の歌。
はるか谷の上から届く声。
大勢の仲間たちが歌う声です。
みんなで節おもしろく、たのしそうに歌っています。
その声が万朶の花びらのように、きらきらと谷底にも降りそそぐのです。

一緒に歌いたい――
仲間から遠く離れて咲く花は、いくたびそれを願ったでしょう。
かなわぬ願いと知ってから、いくたびひとり歌ったでしょう。
けれど谷間のかぼそい歌声は、石のおもてにはね返り、水のうたかたと消えました。

花のかなしみを濡らして、なまぬるい雨が降りはじめたのは、ある夜のことです。
雨は激しく降りしきり、暗い朝が訪れたころ、すっかりかさを増した谷川は、泥水のしぶきをしたたか花にあびせました。
花瓣を散らしたあわれな姿で、花はわが身に迫る濁流を見ました。
そして最期の時を静かに受け入れました。
黒い水にのまれながら、花はみんなの歌声を聞いたような気がしました。
もしも生れかわりが本当なら、こんどこそ花野にうまれ、仲間とともに歌おうか。
それとも光にうまれかわって、みんなを照らしてあげようか。
花は引きちぎられ、ばらばらになって、みんなからもっと遠いところへ、送られてゆきました。

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