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あなたはわたしの愛に乗る

うれしいとき、ちいちゃんはほっぺをふくらますくせがあります。
はじめて会った時もそうでした。
わすれもしません。
すもものようにほっぺをまるくして、ちいちゃんはどすんと、わたしに飛びのって言いました。
「切株みたい!」
そう。わたしはまるい木の腰かけなのです。
その日からというもの、あつい夏もさむい冬も、ちいちゃんとわたしはいつもいっしょでした。ちいちゃんがよいしょよいしょとわたしを運んで、おうちのなかのいろんな場所へ連れていってくれたからです。
台所で、ちいちゃんはわたしの上にちょこんとすわり、お母さんがごはんのしたくに立ち働くようすを見るのが好きでした。
廊下では、わたしをとび箱がわりにして、いっしょにひっくり返って遊びました。
風そよぐひるさがりなど、お庭の草の上に置いたわたしに腰かけ、ゆれる花をながめながら、ちいちゃんはいろんなお話を聞かせてくれました。しろつめ草でかんむりを編んだこと、コリーと追いかけっこしたこと、お母さんの口紅をこっそり塗ってみたこと……。
そんな折、澄みきった青空を見あげ、ちいちゃんがふと、だれに尋ねるともなく、つぶやきました。
「どうして空は、あんなに青くて広くて、きれいなのかな」
わたしはとっさに
――空には神さまがおいでなさるからよ
と答えました。
ちいちゃんはびっくりして立ちあがり、あたりをきょろきょろ見まわしました。そしてわたしをふしぎそうに見つめました。
きっとあのとき、わたしの声なき声はちいちゃんの胸に届いたのでしょう。ちいちゃんとの会話――わたしはそれをこの上ないよろこびとして、いくたびもいくたびも思いだしては、幸せをかみしめました。

けれど時はあともどりせず、ひたすら過ぎてゆきます。
わたしに腰かけるちいちゃんは、日ましに重くなりました。
わたしはというと、寄る年波がひとの顔にしわをきざむように、いつしか傷だらけになりました。
中学校へあがったちいちゃんは、おうちですごす時間がもったいないとでもいうように、いそいそとどこかへ出かけては、なかなか帰ってきませんでした。
わたしはへやのすみっこで、ちいちゃん、ちいちゃんと呼びました。でもちいちゃんはもう、わたしに腰かけてくれません。うっすらほこりをかぶったわたしは、やがて見向きもされなくなりました。
その年の暮れ、大掃除のついでに、とうとうわたしは、廊下のどんづまりにあるお納戸の奥に押しこまれてしまいました。わたしは、待って、待ってとさけびました。願いむなしく、バタンとドアがしまると、あたりは真っ暗になりました。
暗闇のなかで、わたしは、おうちのだれからも、ちいちゃんからも、わすれられてゆきました。
さみしさに耐えかね、わたしは泣きました。ちいちゃんを待ちこがれ、泣いたのです。
打ちすてられたみなしごをあわれむように、神さまはわたしをあわれみ、ときどきあらわれては、わたしに腰をおろしてくれました。そのたびにわたしは、ちいちゃんを連れてきてくださいとお願いしました。神さまは、ただうなづき、愛の重さをわたしにのこし、天にのぼってゆくのでした。

そうやってまた、どれほどの歳月が流れたことでしょう。
ある日、廊下をきしませ、いつもなら近寄ることのない足音が、お納戸へ近づいてきました。
ドアがあいて光がさし、入ってきたのは、ちいちゃんです。
すっかり大人びていても、それはまぎれもなく、ちいちゃんなのです。
わたしはよろこびにふるえました。ちいちゃんはわたしを見つけると、引っぱりだしてくれました。そのうれしさといったら、ありませんでした。
ところが、すわろうとも運びだそうともしないで、ちいちゃんはわたしをわきに寄せ、古着の山をかきまわしています。顔つきがこわばって見えるのは、大人になったから、というわけではなさそうです。
やがて動きをとめたちいちゃんの手から、白い布のひもが、だらりとたれました。
ちいちゃんはわたしの上に立ち、金属のポールにそのひもをかけました。そして輪っかをつくり、自分の首を通したのです。
――やめて!
こんなときでも、わたしには心を送ることしかできません。
――やめて、死なないで!
ちいちゃんのつま先にぐっと力がこもったのを、わたしは感じました。
――ちいちゃん!
わたしはあらんかぎり、心の声でさけびました。
ちいちゃんの肩が小きざみにゆれました。すすり泣きが小雨のように降ってきました。
ちいちゃんは輪から首を引きぬき、どさりと床に飛びおりました。くずおれて、わたしに顔を押しつけ、さめざめと泣きました。わたしはこのときほど、人間の手をほしいと思ったことはありません。そうしたら、ちいちゃんをうんと抱きしめ、背をさすり、なぐさめてあげられるのですから。

わたしは、とめどなくこぼれるちいちゃんの涙にぬれながら、その心を知りました。

――つらかったね、ちいちゃん。
だれもわかってくれなかったのね。
がんばったのに、だれからも好きになってもらえなかったのね。
でも、ちいちゃんのこと、わたしはずっと前から、わかってる。
ちいちゃんが好きよ。
ちいちゃんがどんなになっても、わたしはあなたの魂そのものを愛してるの。
かなしみはみんな、わたしの上におろしておしまいなさい。
ちいちゃんのかなしみなら、わたしはどんな重さにも耐えられる。
だから死なないで。
生きていて、ちいちゃん。

そっと、ちいちゃんが顔をあげました。
「ありがとう」
ちいちゃんはやさしい声でささやいて、透明な涙をぬぐいました。

ちいちゃんはわたしをかかえ、明るいへやに運びました。
わたしはひさかたぶりに、日の光とぬくもりをうっとりと浴びました。
ちいちゃんは大人になった手のひらでわたしをつつんでくれました。
「あたたかい」
ちいちゃんのほっぺは薔薇色の夕日に染められ、まんまるくふくらんでいました。

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