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病院に行けなかった頃のこと

2月から花粉症の薬を服用している。
毎夜寝る前に飲む錠剤と、朝夜2回使用する点鼻薬だ。
コツコツ服用し続けているおかげか、今日までのところ花粉症の症状は出ていない。
くしゃみや鼻づまりや顔の痒みに悩まされずにすむ。
実に快適だ。

中学時代に発症して以来、わたしと花粉症との付き合いは長い。
学生時代にどうやって対処していたかはとんと記憶がないが、大人になってからはほとんど市販薬を飲んで対処していた。
なぜ市販薬だったかと言うと、病院に行くのが億劫だったからだ。
病院は開いている時間内に受付をして、待合室で待って、医師に不調を伝え、診断をもらい、会計をして、調剤薬局に行ってさらに待つ。
その時間のかかりようも煩わしかったし、なにより病院に行ってお金がかかるのがとても嫌だった。
市販薬を買うだけなら、そんな手間もかからない。お金も(短期的には)節約できる。
性風俗で働く以前は時間が合わなかったし、お金が惜しかった。
性風俗で働くようになってからは、稼げる時とそうでない時の落差によってもっとお金が惜しくなり、自分のために自分の身体をケアするという意識にも乏しかった。
このくらいだったら死なないだろう。死なないならいいや。
それよりもお金が大事だ。

性風俗はたいていの場合、年齢が上がるごとに稼げなくなる。
若くてピチピチで経験少なくウブであるというのが、一番性的価値が高い。
年を追うごとにわたしの収入は減っていき、30を少し過ぎた頃には保険料が払えなくなり、ついには保険証の使用資格を失った。
花粉症どうこうの話ではなくなった。
ものもらいになろうが、歯が死ぬほど痛くなろうが、意識が朦朧とするほど腹が痛かろうが、病院に行くことができない。
その頃には“風俗嬢という業務”への忌避感は高まりきっていた。客に裸を触られるのも、客の性器を触るのもうんざりだった。
そうかといって、すぐにでも働けるほかの仕事を見つけようにも、今日明日お金が必要という状態で、新しい仕事を探して1か月働き抜くなどできるわけがなかった。
八方ふさがりだ。

当時わたしの中に、行政を頼るという発想は皆無だった。
役所というのは単にお金を納めに行く場所だと思っていた。
そうでないにしても、自分のような若くて健康な人間が相談しに行く場所ではないと思っていた。
役所に行ったら、未払いの保険料の話をされるだろう。
年金も未納になっているから、それについても追及されるだろう。
叱られるに違いない。
いい大人がなにをしているんだと言われるに違いない。
ともかく役所には近寄らずにいよう。

いったい、誰がそんなことをわたしに吹き込んだろう。
おかげで当時のわたしがこの世で最も頼れる場所は性風俗店だったし、一番頼れる相談相手は風俗店のスタッフだった。
彼らはいつもフランクで親身だった。
スタッフ達は、わたしがたくさん稼ぐためにどういう写真やどういうブログを書けばいいか、一緒に考えてくれた。
保険証が使えなくなったと言った時には、よく効く市販薬や、医薬品を通販で買う脱法サイトを教えてくれたし、歯痛が酷ければ正露丸を噛むといいことも教えてくれた。
客先から戻った時はニコニコして労いの言葉をかけてくれたし、コンビニの新商品を買っていれば目ざとく見つけて話題にしてくれた。
カンジダやクラミジアに罹ってしまった際には「早く治るといいね」と言ってくれた。「再出勤の連絡待ってるよ」と。

自分で列挙していて、笑ってしまう。
彼らが優しいと芯から感じていたことに、恐ろしくなる。
わたしは自分のために働いていたが、彼らの優しさにも応えたかった。

スタッフは誰も、わたしに「役所に行け」と言わなかった。
「保険証が使えないなんて一大事だ」と言わなかった。
そして「歯医者行ったら3日は休まなきゃだめだよ」と言った。
それは給料の保証が一切されていない風俗嬢を怯えさせ、さらに病院から遠ざからせた。
3日分の給料が消し飛ぶくらいなら、歯が痛いことくらい我慢する。
花粉症なんて全然大したことじゃない。目が痒くて鼻水が出ることくらい、気合で我慢すればいい。
病院に行くことはできないが、得体の知れない医薬品を通販して、それでなんとか乗り切ろう。
病院も役所も怖い。
店で客の相手をするのも怖い。
でも、客の相手をすればお金がもらえるから少しまし。
だから頑張ろう。
……


生活保護を利用している現在も、わたしには保険証がない。
しかし医療扶助によって、無料で医療を受けることができる。
病院にかかる際には、生活保護の医療扶助が利用できる病院を探し、福祉課に医療券というものを発行してもらう。
医療券を持って病院に行くか、直接病院に郵送してもらうことで、初診から薬局調剤に至るまで、お金がかかることがない。

今のわたしにはいくつかかかりつけの病院がある。
毎月定期的に通う心療内科をはじめ、歯科にも皮膚科にも通っている。
調子が悪いと感じれば必要な診療を受けに行くようになった。
口腔治療を受けることで出勤できず収入が減ったり、無理をして傷口から性感染症に感染する不安もない。
アレルギーの薬が効いて唾液分泌が減り、客の性器を舐めることに支障が出るのを心配する必要もない。
役所も病院も怖くない。
ただ自分の健康のことだけを考えていていいのだ。

風俗嬢が健康被害をこうむることが当然の性風俗という場所から抜け出せたのは、わたしが必死に逃げて、さらに助けてくれるひとに出会えたからだ。
しかしそれは本当に偶然が偶然を呼び、幸運が転がり込んできたからにすぎないとも思う。
だって「保険証が使えなくなっている」ということを、わたしは生活保護を申請するその瞬間まで、誰にも打ち明けることができなかったのだ。
かつての風俗店のスタッフ以外の誰にも。

役所がもっと足を踏み入れやすい場所ならいいのにと思う。
困っていれば若くても健康でも使える福祉があると、もっと分かりやすくもっと大々的に示してくれればいいのにと思う。
性風俗業者達が高額求人を謳いながら走らせる宣伝トラックが最後の希望であるように見えてしまう社会に、保険証が使えないことを誰にも言えずにいたわたしのような女性はたくさんいるのだ。

耳鼻科帰りにあの騒音を撒き散らすトラックを見かけ、そんなことを考えずにはいられなかった。

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