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とまる時間に物質が美しい


仕事帰りのジムから半額の弁当を狙った閉店間際のスーパーへ、、

そのままいつも宿の代わりにしているマンガ喫茶にトボトボ向かう、じゃりじゃりと小さな足音がさっきまで明るかったけどあっという間に真っ暗になったフジグランの生活エリアの駐車場に小さく響く、今日の胸の内はなぜか静かで、というか今の胸の内はなぜか静かだ

焦燥に駆られる毎日で、季節は9時過ぎのフジグランみたいにあっという間に冬。
さっきまでの夏が嘘のようで、標高高い現場近くの公道の脇に残雪が見えてマジかと叫んだ

雪に現場が覆われる前にひとつ終わらせなくては、そんな風にあわただしく日々が過ぎていたはずなのに、駐車場の闇と光と足音と、それと冷たい夜風が時間を止めた。

何もかもとは言い過ぎだけど美しい世界だ、1時間半ほど離れた自宅にいるはずの子供達の声が聴こえる気がする、なんにでも興味が湧いて指をさして言葉にする、いちいちオーバーリアクションで、こちらもアホになったみたいに同じ言葉を繰り返す。

僕の幸せはいわゆるウェルビーイングとは少し違う気がする。

相変わらず日記に書くにはしつこいほど猛烈に山の斜面に捕まって冷たい風に吹かれながら、デカい蜂の巣を何度もかわして、何度も半べそかいて逃げ回ったりしている。

それでも冷たい空気は空を美しく染め上げて尾根の植生は高く茂らずそのあたりは山の神様が登り降りするところだからか一等景色が良い。

一日山に僕の地下足袋が地面を食む音が響いていて、きっと近くのミミズたちはそれを知っている。

山を降りてジムで筋肉を追い込んで、ズタボロになって眠る、帰宅するのが楽しみだけれど、帰宅したらしたでまぁまぁ戦場で、煮詰まった母ちゃんが少しでも楽できるように家事育児なんでもする、休日はどこかに連れて行って遊ぶ。

いわゆるウェルビーイングというものは日々がうまくルーティンしてストレスフリーに行きていくことだろう、けども主観的な満足感と人生の充足感というものは相反する箇所があるように思う。

日々にはストレスも、たたかいも、絶望も、希望も、そして死ぬかもも、セックスも、呪いも、祝いも、必要なのだ。あらゆる感情の劇場に振り回されながら神やら天やら自然やら運命やらと対話すること、それこそが幸せな当たり前な人生なのではないか。

ストレスフリーな動物などいないし、縄文人ももちろん肌身離さず死や危険への恐怖を持っていたはずだ、じゃないとたかが壺があんなにウネウネするわけない。

現代のいうウェルビーイングは指標にするには人間を馬鹿にしすぎてる、運命から各人をピンセットでつまみ上げて養殖の海に放流するような価値観じゃないか。若い人はそんなことを考えずに、もっと盛大に恥さらしに運命という舞台の上でずっこけでもらいたいと思う。


さて、日記というのなら書きたいことは無限にあるのでざっとかいつまんで書いておこう。

出張の時にマンガ喫茶に泊まるのは疲れたので部屋を借りることにした、僕の単身赴任の部屋だ、部屋を借りるということは、そう、職場が少しだけ安定してきた、色々な取引先があって、その都度テントで泊まったりと無茶なことをしていたけれど、ひとつの会社にしばらくは実績をつんでみようと思った。

借りる部屋はもちろん迷わず最安値の部屋へ、なかなかやばそうなところで床が外廊下の床みたいで、壁が外壁みたいな部屋だ、どこかの詐欺グループの事務所跡のようで収納も風呂もない、内見の時に、壁の外に面するところがヒビいってて外が見えてたので雨漏りは大丈夫なのかと聞いたけど、大丈夫らしい。

入居予定3日前に、やっぱり盛大に雨漏りしていることが発覚して、別の部屋にしてもらうことになった、こちらは少しは人の住んでそうな部屋だった、向こうの不手際もあって家賃が2000円引きになって、さらに来月の家賃は無料とのこと、これはラッキーではないか。

共有のシャワーに共有の洗濯機、これらの電気ガス水道は共益費に含まれるみたいで、これもむしろラッキーな気がする、なので部屋のガスは契約しないつもりで調理等はガス缶でキャンプのカセットコンロなんかを使うつもりだ。

家具の一式は、少しでも雰囲気が出るようにほんの少しは吟味したいと思い、とりあえず手始めに何度も検討、下見を重ね、ネットでも比較し、厳選した木彫りの熊をとりあえず1600円で購入した。

まさに今日入居予定だったのだけれど、契約書の保証人である実家のオカンからの書類がこちらの不備で遅れてしまい、明日か明後日にならないと届かない、今朝の時点で今日入居できるか分からなかったので、とりあえず散らかりまくった軽トラの荷台を一掃して、第一の家具である木彫りの熊を乗せて現場に来た。

6月からジムに通うようになって、ある程度メンタルヘルスがキモチ良くなった。
それでもどうもマンキツでの寝泊まりが少し、疲労を蓄積させるようで、相変わらず(じんせいずっとそうなんだけど)旅人感のある毎日で、バランスボールの上のような日々だった。

少しでも、ほんのすこしでも着地したいと思い、部屋を決めた。実は内心ワクワクが止まらない、部屋の周りを散歩したりした、松山大学のすぐそばで若い人たちが往来している、すぐ裏に松山城があって、大街道の繁華街もある、大きな城前の公園もある、少し行ったらいけてる人々の落ち着いた暮らしを感じられる商店街ではないけども、八百屋さんや魚屋さんが並ぶ店の並びがあって、愛媛でウロウロしてきて多分最強の古本屋もみつけた!

その全てに自転車でアクセスできる、それでいて、住むビルのすぐ近くは落ち着いていて、すぐそばに銭湯があって、ネパールや中華の各国の人がネイティブにやってる感じの店がある。

この部屋、駐車場はついてないけれど、家のすぐ近くに24時間450円の駐車場があるので、そこにその都度停めるつもりだ。

多分月に10日ほどだと思うし、そんなに泊まらないこともあると思う、むしろ月額で駐車場借りるより安くつくかもしれないと思う。

ジムは今通ってるジムの松山駅近くの店舗があるので、そちらに移ろうかとも考えている。

もうひとつうっすらと野望めいたものがあって、また格闘技をしたいと思う、全然過疎配信だけどうっすらと配信は続けていて、みてくれるリスナーももう2、3年になる、ずっと僕は格闘技をまたしたいと口に出してきたが、腰やら首のヘルニアもあってなかなか遠い道のりだった。

6月からジムに通って根本的に少しずつ鍛えるようになって、治ってはいないけど少しは良くなってる実感もある、今は僕も37になった、しばきあいをするにももう最後のチャンスなんじゃないかとも思う、たまたま配信者たちが集まってする格闘技のイベントに誘われもしたので、それに出れたらいいなと思う。

今話題のブレイキングダウンのぱちもんみたいなイベントなので、オーディションとかにも出なきゃだけど、そこはまぁ素の自分でいこうと思う、無理でもいいや

アマチュアの修斗でもいいし、何かキックの試合でもいい。
とりあえず、キックかボクシングのジムに通おうかと思う、総合のジムが良い気がするけど、店舗型で通いやすいところがあまりない。

筋肉がだいぶついた気がする、筋トレも色々試してみた、以前までは分割法という各部位を分けて鍛える方法でやっていたけれど、今は全身法というやり方を試している。

筋トレについてたくさん書きたい、いや、日記だけでも書きたいことが山積みだけど、書くタイミングがなかなかなかった。

今日、すっと夜のとばりが降りるように、僕は椅子に座って、もう数ヶ月前から書くつもりでポシェットに入れていたキーボードをやっと取り出してこの文章を書き出している。


さいきん、自分の心象が少し変化してきていることを感じている。
平和ということについて、、
世界をおびやかせる戦争の音が今やSNSを通じて僕らの耳元で轟音をたてる。
すぐそばにいるようで手が届かないたくさんの子供たちの死を眼前に投げかける地獄のようなタイムラインを前にして何もできない無力について。

誰しもが思うだろう、これらのことをなぜこんなにもたくさんの人々が認知しているにも関わらず相変わらず止まることなく繰り返されていくのだろうか。

日本人は平和ボケしているということについて、僕は最近おもうのだ。
平和だから平和ボケして、何が悪い、それが悪い世の中ではいけない。
平和で平和ボケになってそれが世界中に蔓延すればとりあえず良いのではないか
平和ボケたい平和ボケたかった人々は歴史上無限にいる。

世界で最も人を殺すのは核兵器でも宗教でもなく、イデオロギーだと思う。
日本人にはイデオロギーがある、日和見主義だ、とてつもなく無責任な考えかもしれないかもしれないけれど、これのおかげで今まで日本にはろくテロも紛争も、戦争に巻き込まれることもなかったのではないか。

SNSで取り沙汰される、日本のポジショニングや、思想の表明が、投票率を上げたりするようになるとむしろこの平和ボケの日和見主義が衰退することになる、それは危険なのではないか、SNS的なもので白熱すればするほど、イデオロギーは栄養を吸うような気がする、それらがリアルをこめて議論されるようになるのが僕は単純にこわい。

けれどもすがる手すりがあれば簡単に身を預けるのが愚かさだ、加担するに足るイデオロギーがあればそこに雪崩をうってしまうのもまた愚かさだろう、そう考えると平和ボケをバランス良く持続するのもとっても難しいだろうな。

日本の世界に類を見ない価値である、無宗教の平和ボケ日和見主義が世界に蔓延すれば良いのだけれど、ヨーロッパ言語化することは難しそうだ、核でぶん殴られておいて、右の頬をさらしっぱなしにする日本の凄さをもうちょっと世界は評価すべきだと思う。

そんなことを恐れおののきながら、僕はちょっぴり他者に優しくなった気がする、このはかないかもしれない平和を慈しむべきだ。なんでも言葉にして言語化して、捉えてそれを拡散させることが良いこととは思わない。

個人的つぶやきであったものの世界にインフルエンサーのバッファローの群れがやってきて、あらゆる個人的な心情の吐露をその土煙でかき消してしまった。

もはや個人的つぶやきであったものは、壇上の大衆演説になってしまってる。
王様の耳はロバの耳と叫ぶ声は穴に埋められた配管を通って直接王様のロバの耳に向けて叫ばれてる。

そんな世界の止まらない変化にあって、相変わらず可能な時間を見つけて文字を読もう、今は珍しくメジャーな本を読んでる、サンデルの「実力も運のうち」。

これは能力主義が蔓延する世界の当たり前に一石を投じる話になっていて、面白い。けども僕はこういった本はやはり苦手らしい、最近きづいたけど論理的な本が僕は苦手だ。
あーだからこうという繋ぎ目が僕にはいまいちわかからないのだ、この文章が支離滅裂なように人の正直というものは一列の並びではないし、論理は一貫性を帯びるのが一般的だとは僕は思わない。

世の中はエビだのソースだのまみれになっていてどれがアナタの素材の味かわからなくなっちゃってる。誰かが言ってる書いてる、ってことが準拠になる世界観が僕には理解できない、自分と自分に与えた影響が混然と混ざり合ってその上で自分の口や手から正直に吐き出すこと以上の準拠なんてあるんだろうか、ソースたるソースやエビ中のエビなんていうのは、どこまでも玉ねぎの皮で真空は空ではないんだろうか。

論文は信じるけど、その論文を用いようとしたそのひとの真意に目を向けないなら、人間なんて必要ない、論文AI同士会話させたらいいじゃないか。

意味がわからないけど、キモチがわかるドゥルーズやガタリ、こないだはレヴィナスに沿って思考する「傷の哲学」という本が響いた、レヴィナスはユダヤ人であり親族皆んな虐殺されたのだけど、自分と家族は無傷で生き残ってしまうという傷を生きた人だった。

こういった経験は人を破壊する、同時に勿論、論理も破壊するだろう。
そしてレヴィナスは考えるんだ、ここから人は始まると。
破壊された人格、論理、その開かれた傷から人は産まれると。

僕はそうだ、レヴィナスの語るウェルビーイングになら耳を傾けたくなるに違いない。
次は大江健三郎の「こわれものとしての人間」という本を読むつもりだ。

ベストセラーの本は生物標本を観察するかのように、死者が生に麻酔をかけて無害化してから並べ立てるようにして記述された本が多い気がするのは僕だけか、逆にベケットやドゥルーズやアルトーやレヴィナスのような死と絶望の最中から産み出されるテキストの中にむき出しの生を読み取れる気がするのだけど。

日々は相変わらず不安定で大変、不定形で予測不能なんだけれど、そんなことは書くまでもなく自然であるということで、今はそこでなんとか生きていますということもまた
当たり前だ。

妻はわりと神経質で石橋をなん度も叩いて渡る人間で、僕は石橋を全然ちがうとこキョロキョロしながらるんるんで渡るタイプの人間なのだけれど、最近ふと思ったことがある。

どっちも生きてるよなって、そして多分歴史上どっちのタイプも生き延びてきたんだ、適者生存、むしろ他にも多分いろんな種類の人間がいたけど、今いるタイプ以外のやつはだいたい滅んだんだろうな。

妻なんかも石橋を叩いてぶっ壊したり、叩くもんだからそれで石橋がダメージを負ってそこを渡るもんだから崩落するというようなこともあるし、僕もルンルンですべって落ちることがあったり、橋に空いた穴によそみして気づかず転落することもあって、どっちもどっちで、神経質な方が助かるというわけでもない。

というわけで免罪符をえた、明日からも僕はこんな具合で、とりあえず今の所はなんとか家族を食わせることもできてるのだし、こんな感じで生きるだろう。また日記は書きたいと思う。ではまた

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