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写真作家の道を遠く離れて

たまに写真の話題をしないと自分自身がフォトグラファーであることを忘れてしまいます。(ん??誰が??)

最初に写真作家に憧れてからもう二十数年経ちますが、だんだん遠くに離れていっています。
とくにSNSの時代になってから、まったく見えなくなってしまいました。

感じたことや表現したいことがあったとしても・・

  • 誰がそれをしっかり受け止めてくれるのか

  • 写真を鑑賞することの価値ってなんなのか

  • 写真を見せるのか、文章も見せるのか

  • 写真に芸術性はあるのか

  • 写真を見て素敵だと思うその素敵とは一体なんなのか

  • そもそも作品として成立するのか

つまりマーケティングでいうところの「ターゲット」とか「ペルソナ」とか、はたまた「自分の強み」とか「市場における位置付け」なんかが・・
まったく分からないのですね。

誰に何を届けるのか、メッセージなのか、感動なのか、なんらかの利益なのか。見る人は何にお金を払うのか。

写真はしばしば、別のものと抱き合わせで提供されることがあります。
写真が写真としてストレートに鑑賞者に届くことは、写真世界全体のごく一部のような気がします。

展示なら、ほぼストレートですが、本や雑誌になると文章というものが入ってきます。
そして写真が主にならないで、文章やコンテンツが主で写真がその理解を助けるものとして機能することもあります。
そうなるとその写真はもう、作品ではなくなるのですね。

また、瞬時に目の前に表示されては消えていく写真も、作品とは言い難いものがあります。

オレオレ写真作家なら今すぐなれそうだけど、それを「なりわい」とするには、あまりにも遠い世界に住んでいるんだなと改めて思います。

大阪港

ついにメインのレンズを売りに出した

ついにメインの標準ズームを売りに出しました。
次のズームは、何であればよいかは決めているけれど、すぐにそちらに行けない気持ち的な距離感があるのですね。

この気持ち的な距離感は「必要性のなさ」なのかもしれませんし「情熱のなさ」なのかもしれません。
情熱がなくなったと思いたくはないけれど、世の中にわんさとある写真というものを毎日毎日見ていると「あえてそこで自分が」とはどうしても思えないのですね。

誰が自分の感性を受け取ってくれるのかが、どうしても分かりません。

いっそのこと自分のためだけに、ガジェットライクでTOYライクなレンジファインダーに美しいネックストラップをつけて、街ブラするのを老後の楽しみにするかなとか・・
刹那にそう思うときもあります。

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