不登校の経済効果

学校に登校できない子どもが増えています。
関連する問題として、学力の低下も挙げられます。

内田樹さんの「下流志向」をはじめとする書籍を読んでいるうちに、学校に行くことができない子どもや学力の低い子どもは望まれているのではないかと考えてしまいます。

なぜなら、学校なんか行かずに家でスマホに興じてくれた方が、いろいろなサービスに支払いをしてくれるチャンスが増えるでしょう。
学校なんか行かずに、家庭で食べ物を消費する方がコンビニやスーパーは儲かるはずです。
もしかして、電気代や水道代までもが不登校が多い方が売り上げが上がるかもしれません。

または、通信制高校や通信制大学という教育ビジネスの需要を増やすためには学校に行けない子どもが多い方が良いのかもしれません。
塾なども同じく、学校で学ぶことに困難を感じる子どもや学力が低い子どもがいないと仕事自体が成り立ちません。
(もちろん、その場で教育的実践をされている方々は子どもを良い方向へ導くために善意でされているとは思います)

子どもが、いきいきと学びだし自学自習の達人になり日本の学力水準が上がるという事態になった時どうなるでしょうか?
もしかして、そのことによって不利益を被る人たちがいるのかもしれません。

内田樹さんは、物事が「なぜ起こったか」という問いばかりではなく「なぜ起きても良い事が起きなかったか」という問いを立てます。

歴史的にみれば教育は権利であり、積極的に行使されるべきです。この権利を獲得するために世界では闘いが起きました。
つまり、現代日本でも子どもたちが嬉々として学習に打ち込むという事態が起きても良かったのではないでしょうか?

しかし、現実は違いますよね。教育の機会は忌み嫌われるものとなり、その権利は積極的に放棄されるようなものになっていないでしょうか?

不登校の増加や学力の低下の状況、規模の大きさを見ると子ども個人の怠惰や努力不足ではない部分があるような気がします。

むしろ、消費社会を生活からよく学び社会が求める最高の消費者になるべく子どもたちが努力した帰結と捉えるべき状況なのでは?と考えます。

学びの根源的なスタイルはオンデマンドではなく、バイアクシデントであると内田樹さんは言います。
つまり、目の前の学びがどんな利益を自分にもたらすのかという打算的で本人にとって必然性があるものではなく、まったく予期しない偶然なものであるという事です。

内田樹さんの違う表現を引用すると「すでにはじまっているゲームに訳も分からず参加し、少しずつ要領を得ていくこと」です。

幼児の言語習得がこれです。
これが、1番理想的な学習の形です。

しかし、このバイアクシデントな学びが良い消費者になる事において発揮されているのが現在の日本だと内田樹さんの本を読んで感じました。

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