見出し画像

3.11

はじめまして

この一文から始めさせていただきます。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

宮城県沖で大規模な地震が発生した。当時のことを鮮明に覚えている人は多いだろう。私自身も東日本にいたため、当時の様子をよく覚えている。

私の住んでいた地域は直接的な被害は無かったものの、震度5くらいはあった気がする。その時、小学6年生だった私は卒業式練習をしていた。体育館にいる時に巨大な揺れが来た。教室にいたなら机の下に隠れていただろうが、体育館にいたため、そのようなものなかった。6年生は皆、パイプ椅子の下に体を小さくして入った。とても新しいとは言えない校舎で、天井で大きく揺れている水銀灯を見て、あれが落ちてきたら死ぬと本気で思った。隣の友人と「天井のあれ落ちてきたら死ぬな(笑)」と話していたが、今思い返すと、そうすることで恐怖を拭おうと思っていたのだろう。

揺れが収まり集団下校をすることになった。酷く天気が荒れていて、帰るのが億劫になるほどだったのを覚えている。その頃は今ほどSNSが普及しておらず、瞬間的に情報が出回るということは少なかった。今でこそ、地震があったらどこで発生して規模や被害がどのくらいか調べるようになったが、あの頃の私にそんな考えはなかった。確かに大きな地震だったが、いうても震度3や4を経験していた。だから、いままでより大きめの地震が来た。くらいの認識だった。

録画してあったバラエティ番組を見ながら夕飯を食べていた。この時にニュース番組でも見ていたら、その日に卓球の夜練に行くという行動は取らなかっただろう。私の地域では、停電することもなく普通の日常が送れたため、いつも通り夜練にいった。休憩時間中に父のガラケーのワンセグを使い、ニュース番組を見ていた。そこに映る映像に衝撃を受けた。いったことのある土地が海に飲み込まれていたのだ。浸水なんてレベルではない。津波で壊されていく衝撃的な映像。その時にやっとただ事ではなかったのだと気がついた。

誰か親しい人を亡くしたわけではない。我が家や地元が津波で流されたわけでもない。それでも、小学6年生だった私の人生に深く刻まれる1日だった。

そんな私だが、東日本大震災というものをちゃんとは理解していないようであった。そう感じたのは昨年公開された「護られなかった者たちへ」を見た時だ。震災の悲惨さを描いた作品で様々な苦悩が描かれていた。

確かにあの時私は東日本大震災を経験した1人だ。だが、悲惨な状況を直接目にしたわけではない。映像で見ていたものの、やはりどこか他人事だったのかもしれない。結局、ボランティアなど経験することはなく、映像だけで悲惨な状況と復興する様子を追っていた。

ここ1年で映画を見て東日本大震災について改めて考えた。ここ1年で映画や小説で人の死について考えた。ここ1年で建築を学び震災復興について考えた。発生から11年。直接見ていなかった被災地の様子を見に行くことにした。3月11日に。

仙台市内の広場では献花会場が設置されていた。バスや電車内でも花を持っている人がちらほらいた。震災遺構として残されている仙台市立荒浜小学校を訪れた。津波によって車が流され教室に突っ込みボロボロになった壁。2階の鉄柵は津波の勢いでひしゃげ、倒れていた。1階の天井は津波の圧でボロボロになり、本来の位置より上がっていた。小学校の周りにはかつて住宅街が広がっていたが津波で何もかもが流されていた。あまりにも綺麗に整えられた現状からは想像が出来なかった。海から近い綺麗な街で、福島のように放射能汚染されているわけでもない。なのに、そこに住むことが出来ないのだ。津波危険区域に設定されたことでもう戻ることができない。

施設内には訪れた人の温かい声援が付箋に書き込まれて貼られていた。それを読んでいると自然と涙が零れた。

今日、はじめて自分事として震災を実感した。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

手の届く範囲にいるあなたが

幸せでいることを願います

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?