チョコチップメロンパン

 ほんのりと温かい紙袋を携え、玄関のドアを開ける。

「ただいま。これ、いつもの」

 『僕』はそう言ってチョコチップメロンパンがふたつ入った紙袋を手渡す。長い髪を下した『彼女』は仕方なさそうに小さく微笑んだ。


 ーー遡ること、青春時代。


 学校帰り、学校の近くのパン屋さんに通うのが僕の楽しみだ。店内に広がる出来立てのパンの温かく甘い香りは他では嗅げない香しさがある。この匂いが、僕は好きだ。

 僕は買うのは決まってメロンパン一個。ここのパン屋さんでは少し大きめに作ってはいるものの、高校生の僕の小腹にはちょっと少ない。が、そう毎日何個も買っていてはすぐに小遣いが底を尽きてしまう。今日も一個、トングで掴んでトレーに乗せる。

 ふと隣を見ると、『新商品‼️』と大きく書かれたポップと共に類似したパンが並んでいた。

 チョコチップメロンパン。僕のいつも買っているメロンパンにチョコチップが加わったパン。それだけ、と言ってしまえばそれだけ。それ以上かと言われると、それは僕の物差しでは決められない。良し悪しなんて結局誰かの個人の好みの多かれ少なかれの問題であって、それが真にいいものかどうかを決められる人なんて世の中のどこにもいない。

 僕は数秒迷ってトングを伸ばしかけたが、やっぱりその手を引っ込めた。単価がちょっとだけ高い。そりゃそうだ、チョコチップが増えてるんだから。


 購入完了し、ビニール袋にメロンパン入れる。手から下げたそれは、歩くリズムに合わせてふわりふわりと前後に揺れる。

 川の河川敷をぶらぶら歩きながら帰路に着く。寒い冬は少しずつ過ぎ去り、日によっては半袖になりたくなるような暖かい春。そんな柔からな気温とは裏腹に、まだ突き刺さるように鋭い涼風が僕の短い髪をふわりとなびかせる。

 時刻は5時、夕日は川の下流の更に奥に広がるビル群の間に沈んでいく。顔なんて真っ赤にして隠して……照れてるのかな。存外、太陽ってのもかわいいもんなのかもしれない。

 適当に歩いた後、川の方に降りる為の階段に腰掛ける。後から来た人の邪魔にならないように、端っこに。

 僕は袋の中身のメロンパンを取り出し、美味しそうだとか考える間もなく包みを取って齧り付く。まだ出来立ての温もりが内側に残っており、このほんのりした温かさが美味しさに拍車を掛けている。外はカリっとサクッと、中はフワッと柔らかい。ほんのりとしたメロン風味の甘味が鼻を抜け、五感が悦んでいると感じる。


 僕はきっと今、人に見せられないような気持ち悪い笑顔をしてるだろう。想像してみてくれ、メガネ・低身長・ガリガリ・フツメン男子が河川敷で一人でメロンパンを頬張って盛大にニヤけている姿を。そして更に想像してくれ、あなたが友達や恋人と談笑しながら学校から帰る帰り道……あるいは退勤時でもいい、そんな者と出くわすと。あなたはそういう状況でそんな人と出会って、1ミリたりとも不快感を覚えないなんてできるか? 多少なりとも変な人だと思うんじゃ無いだろうか。

 なんたって僕は端っこがお似合いな、いわゆる陰キャだ。友達も正直言っていないようなものだし、もちろん彼女なんて夢のまた夢。せいぜいSNSにご自慢のオタク知識をひけらかして悦に浸り、その中で出会った顔も声も知らない人と文字で楽しくおしゃべりするのが精一杯。そうでもしないと友達を作れない。

 そうでもしないと、僕は孤独になってしまう。強がって口をつぐんでいるけど、本音を言えば独りになるのが寂しい。目を覆いたくなるような悪意を多く内包したSNSに依存している理由の大きい部分はそこだろうな。たぶん。


 ああ、美味しい。甘い。……ただ、失敗した。喉が渇いてしまった。アホだ。こんな事態は想像に容易かったはずだ。こういうちょっとした先読みがもうちょいできれば、もう少し人並みに人と仲良くできるはずなんだけどな。

 缶コーヒーでも買いに行こうか。そう思って立ち上がると、背後に気配を感じる。恐る恐る振り返ると、1メートルくらいの近い位置に人がいた。

「……うわっ」

 驚いて思わず声が出てしまった。振り向くとそこに人が立っていた。うちと同じ学校の制服。長い髪を後ろでひとつに結んだ、どこでもよく見かけるような姿をしている。身長は僕と同じか、ちょっと高いくらいか。まぁ僕が低いんだが。誰だっけな、男で170センチないと人権ないとかってほざいた輩は。劣等遺伝子で悪かったな。

 そういう出で立ちをしているので、学年が僕より上なのか下なのか、はたまた同じなのか判別がつかない。高校2年生って立場はこういう時に非常に困る。1年生なら全員に敬語で話せば無難にやり過ごせるし、3年生ならタメ口でもギリ許されるだろう。まぁ僕は性格上、年下だろうが敬語にはなるけど。


「そんな驚く? 私ずっといたんだけど」

「え……い、いつから?……ですか」

 話し方が定まらず吃ってしまう。取って付けたような敬語の違和感が凄まじいのは、言葉を発した僕が一番理解している。

「君が美味しそうにメロンパン齧ってるところは見たよ。あとクラス一緒なんだから敬語やめてよ気持ち悪い」

「……え」

 知らんかった……いや気付かなかった、と言うべきか。クラスにいたのかこの人。正直、学校にいる人は全員同じ顔に見えている。だって制服は同じだ、それに校則で髪染めは禁止されているし、髪型も制限がある。規則に縛られて補完された見た目で統合された集合社会で、誰がどう違うかなんてわかんない。

「あのさぁ、あんたもうちょい周り見た方がいいよ。社会に出たときに困るよ」

「いや別にいいっすよ。あ、いや、『別にいいし』か。」

「よくないでしょ」

 なんでこの人は他人のそこまで干渉しようとするんだろう。他人がどう生きようが自由だし、それで不便してもそれはこっちの自己責任だ。例え損だとしてもそれはある程度わかって生きている。外からどうのこうの言われる筋合いはない。

「ほっといてくんないかな、僕の自由だろ」

「……あのね、あんたは良いだろうけどこっちはあんまり良い気がしないから言ってんの。自分が良いからって塞ぎ込んでも周りは思ってる以上に迷惑してんの」

「だから迷惑かけないように誰とも関わらないようにしてる。誰かと関わったせいでその誰かに嫌な思いさせたくないから、だったら最初から関わらなきゃ良い」

「それが迷惑なんだよ。何カッコつけてんの? 仮にもクラスっていうコミュニティに居る以上はその一部でいてもらわないと困るの。何もしなかったらそれはそれで迷惑なんよ」

 ひとつ結びの女子はズケズケと僕のATフィールドをこじ開けようとしてくる。正論だ。でも正論が常に正しいとは限らない。それに沿えない人間がどれだけ苦しい思いをしてるか。正しくあれるものなら僕だってありたいさ。でもできなくて苦しいんだ。だから閉ざすしかなかった。

「じゃあ関わってみてさ。関わったら仲良くなって、そうしたら心の距離を詰めたくなってさ。でもそれがうまくできないんだよ。詰めようとしたら一気に詰めてしまって、その人の触れてほしくない部分にまで触れてしまう。そうなってしまう前に、あらかじめ蓋をするんだ。そうするしかない」

「そりゃそういう時もあるけど……」

「そうじゃない。『そういう時』じゃない。毎回、なんだよ。毎回そうなんだ。誰と仲良くなろうとしても、心のタガが外れた時にはもう遅い。既に嫌われている。ずっと……ここ何年かずっと。もうわかんないんだよ、僕はどう人と関わって良いのか。良い塩梅とかもわかんない、僕はゼロか百でしか動けない。詰めたら100も詰めてしまう。だからゼロを選ぶ事しかできない。器用な人ばかりじゃないんだ、ずっと苦しいんだよ。器用な人と同じようにできないのが、苦しいんだ」


 気付いたら僕は全部話していた。初めて話した人に、全部。

 そうだ。僕は確かに周りを見ていない。見ようとする事を避けているんだ。誰かと関わるのが怖いから。陰キャだから陽キャの人のノリに合わせられない、というのもある。自分が傷つくのも怖い。そして同時に、自分じゃなくて他人を傷つけるのも怖いんだ。

 それでもたまに寂しくなって、少し話せるかなって思った人に詰め寄ってしまって、そうやってまた入り込みすぎてしまう。メンヘラっていうのかな、こういうの。時として孤独に耐える事にも限界が来るんだろう、だから少しでも気を許せる、許してもらえる人がいればその人に依存的になって、急激に距離を詰めて、自分のものにしたくなる。逃したくない、自分を見てほしい。そういう恐怖観念混じりの孤独感を埋めようとして、それで毎回何かを壊して回っている。

 それが僕だ。だから人と関わる事を避けてきた。だからできれば高校だって辞めてしまいたいけど、それは将来的に学歴が低いと困るから辞められない。でもどうせ僕には将来なんて無いだろう。人と話せない僕が社会に出たって、生き残ってはいけない。……だったらいっそ、死んでしまおうかな。


「……なんだ、思ったより話せんじゃん。そんだけ話せりゃ十分じゃない?」

 ひとつ結びの女子の言葉に我に還る。いや、『我』ではなく『表の世界』か。むしろ自分の世界に閉じこもって居たんだから。

「初めて話した人にさ、そんだけ自分の事を話せるなら十分だよ」

「いや話すだけなら話せるよ。だってどうでも良い相手だから。僕が苦手なのは誰かと親しくなる事なんだから」

「……え、あたし今割と親しくなれてない?」

「……は?」

 この女、一体何言ってんだ。さっき会ったばっかりだろ。会ったばっかりだから多少は話せるってだけだ。問題はどう距離を詰めるかっていうのが苦手なのであって。その場凌ぎの会話は別にどうだっていい。

「身の上話ってさ、気を許した相手にしかできなくない?」

「いやどうでもいいからできるだけだよ」

「にしては結構、『助けてほしい』って言ってる感じがしたけど」

「そんな事……」

「あんたさ、本当は人間大好きでしょ。でもうまくいかないからしんどいって感じなんじゃない?」

 ……ぐうの音も出なくなった。それがどこまで的を得てるかはわからない。ただまぁ……距離を詰めようとするのは少なくとも、相手を憎らしく思ってないからなのは確かだ。でもそれは果たして僕自身が『人間が好きな人間』だからなのか、それはまた別問題じゃ無いだろうか。

 むしろ嫌いだ、嫌いな人種は本当に多い。人に迷惑をかける奴は特に嫌いだ。周りを見ないで自分が楽しければそれで良いと思ってる人が大嫌いだ。だから陽キャが無条件で嫌いだ、あいつらずっと楽しそうだから。それを見て嫉妬しているこっちの目なんて気にしないで騒いで。消えてほしい、見えない所で勝手に盛り上がってほしい。群れなきゃ1人じゃ何にもできないクセに……周りに合わせる事しか脳がない奴らなんて大っ嫌いだ。

「んな事ないよ。大嫌いだよ。人間なんて滅べばいいと思ってる」

「魔王かあんた……」

「魔王ね……それも良いね。なれるもんなら」

「なれたら祝ってあげよっか?」

「結構だよ、なんないから」

  こいつもこいつだ。なんでこんなに鬱陶しく話しかけてくるんだ。こいつもそういう人種なんだ。人の迷惑を考えない。自分が絶対に正しいと思い込んでる。嫌いだ。

「もう良いかな。帰るから」

「あそう。食べかけだけどいいの?」

 そいつは僕の手元の歯型のついたメロンパンを指差す。

「食べながら帰るよ」

「あの美味しそうな顔、道行く人みんなに見られるね」

「……」

 こいつマジで何がしたいんだよ。僕をからかってるのか? ああ、そうだ。僕で遊んでるんだ。僕という自分より圧倒的に下等な生物より優位に立って、正論で押し潰して、優越感に浸ってるんだ。こいつもあいつらと同類だ。

 食べかけのメロンパンを袋の中に収め、黙って立ち上がる。

 そこからは必死でよく覚えていない。記憶があやふやになりながら帰路について、意識がハッキリと戻った時には自室の隅で背中を丸めて座っていた。左腕の肘が少し痛い。帰ろうとする前に強く掴まれたような気がする。

 ぼんやりとしかあの時の事を思い出せず、あやふやな記憶に蓋をして僕は眠りにつこうとベッドに移動する。頭がボーッとして額が熱く、全身に激しい倦怠感と眠気と吐き気を覚える。風邪の症状に近いような、でももっと違う感じもする。もっと深い、深い眠りに引き摺り込まれるような感覚。行ってしまえばもう戻ってこれなくなるような感覚。ドス黒い底なしのドブ沼に手足を取られ、息もできないくらいに溺れて身動きできない、そんな感じがする。もう二度と目を覚ましたくない。もう……このまま何もしたくない。何も見たくない、何も耳にしたくない、何もかも消えてほしい。このまま消えたい。もう嫌だ、何もかも。


 死んでしまいたい。


 それからまた記憶のない期間が長く過ぎていった。


 心療内科の診断では、僕は『鬱病』だと言われた。もっと細かい説明もあったけど、難しい事はよくわからなくて頭に入ってこなかった。でもとにかくどうやらそういう事らしい。

 退学届を書く時の手が異様に速かったのは覚えている。親にももちろんある程度止められたし、教員にも『もう少しここで頑張ってみないか』という旨の言葉もあった。両者口を揃えて『ここを頑張れないと将来、社会で生きていけない』と言われた。

 そんなもの知るか。将来の事なんてわからない。あんたら大人は経験してきたからわかるんだろうけど、僕にはそれはない。自分が経験したからって、それを経験していない僕がわかるわけないだろう。共通認識だと思われるのはおかしい話ではないか。

 辛いのは今だ。将来がどうとか僕にはわからないし、ここを耐えられるなら鬱病になんかなってないだろ。お前らこそ鬱になった事ないくせに何わかった風に言ってんだよ。僕がどれだけ辛い思いをしてるか知らないくせに。お前らもなってみろよ。歳食ってるってだけでわかった気になりやがって偉そうに。


 そうして僕は記憶も曖昧に数ヶ月を自室の隅で過ごした。何をしていたか覚えてない。最低限は何か食べていたし、眠ければ寝ていたし、それ以外の時間はひたすら何が映っているかもわからない画面を見つめていた。

 正直、後悔はしてない。トリガーになったのはあの河川敷での一件ではあるけど、ずっと積もるものが積もってはいた。もしあの場所であの人に会っていなくても違うところで限界がきていた。教室の窓から飛び降りたりしただろうな。5階だったけど。そういう死の恐怖すらどうでも良かった。死ねていた方が、むしろスッキリしてたんじゃないかな。


 何日、何週間、何ヶ月……経っただろうか。最低限の生命活動を保つだけの生活にもそろそろ飽き出してきた。シャワーを浴びて体の表面の汚れを落とす。どれだけ落としても落ちないのは心の汚れ。体のどこを必死に擦ったって落ちやしない。

 気分を変えたくて外に出た。アテもなく街を徘徊してみる。外に出られるだけの気力が湧いたのはマシだった。それまでは思い起こすだけで吐きそうだったし、実際そのストレスでお腹を壊して一日中トイレで過ごしたこともある。

 でもやはりダメだった。家から少し先までの田畑に囲まれた田舎道には人もいないので苦しくはなかった。問題は人の増えてくる街中だった。


 なんにも考えずにショッピングモールに入ってみたのがまずかった。僕にとって何よりも苦痛なものは、いとも簡単に、軽率に摂取できてしまう。それは人の話し声だ。一人二人ならまだそうでもないが、それが10人以上にまで単位が増えると耐えられなかった。そのガヤガヤとした喧騒が耳に入るだけで、クラスにいた時のとてつもない不快感や居心地の悪さを思い出させる。心が苦しくなり、平常心を乱し、呼吸はひどく荒れ、怒り出しそうな、泣き出しそうな程に心乱れる。

 耳を塞いだってダメだ。目に入るのは同じくらいの学生や、腕や肩を組んで歩くカップルの姿。いわゆる陽キャと呼ぶ部類の人間だ。楽しそうに騒がしく歩く姿を見るだけで、僕は惨めだった。

 同じくらいの年齢の彼ら彼女らが青春を謳歌しているのを尻目に僕はなんだ? あれが『普通』なんだ。朝起きて学校に通って、クラスに友達がいて、授業を適当にやり過ごし、終われば友達を連れて楽しく遊ぶ。それが『普通』だ。

 じゃあそれが何一つない僕はなんなんだ。朝が苦手で起床はいつも昼の2時頃。クラスには友達や恋人を作るどころか、ただ『居る』という事すらも耐えられなかった。何をすれば良いかも、何をしたいのかもわからないで、ひたすら部屋の隅で固まっている。ただ息をしているだけ。それじゃあ、まるで生きているとは言えないんじゃないか。意識のある観葉植物みたいに、親から水分をもらってただ呼吸をするだけ。『普通』にすらなれない、クズと呼ぶのすらも烏滸がましい脆弱な肉塊。生きている価値なんてどこにあるんだ。

 外界から目を背けていた分、こういう人の多い場所にくるとその自分の弱さを痛感する。あれが『普通』なんだ。でも僕にはそうはできない。『普通』は『無難』と同義にされるが、そうではない。人並みに、人と同じ事ができて、居るべき場所に馴染める。それって、実はとても大切な事なんだ。失ってみてわかる。それができない人がそれだけ苦しいか、僕がどれだけ苦しいか。『普通』でいられる事がどれだけ尊いのか。


 僕は逃げるようにショッピングモールを後にした。しばらく歩いてみるが手足に力が入らず、視界もボヤける。大袈裟だと思われるだろう、でもこれが結構マジでこうなるんだ。力なく歩いてみて、でもその脱力感や倦怠感から泣き出しそうになる。

 ボサボサに伸び切った髪で目元を隠し、人の目線が自分の視界に入らないようにして歩く。ただひたすら地面を見つめ、雑踏の中を逃げるように抜け出した。途中、周りが見えずに何度かぶつかりそうになったが、もうそんな他人の迷惑すらもどうでも良くなっていた。だって自分が辛いから。


 どこともわからない道をふらふらと歩く。きっと今、僕は道に迷っているだろう。ここはどこだろう。周りがよく見えない。自分も見えない。視界にモヤが掛かってるような、曇っているような……意識のハッキリしない、まるで朝立ちの降る6月の目覚めたての朝みたいな、なんとも言えない不快感がある。

 耳を澄ます。周りは何があるだろう。右からは木が揺れ、葉が風にざわめく音。鳥の鳴き声。なんの鳥かまではわからないけど。左からは何か……ザァーッという音がする。何かが流れる……そうだ、水だ。ここは川の近くなんだ。道理で梅雨みたいな湿気があるわけだ。

 風がブワッと僕の伸びた前髪を掻き上げる。見覚えのある場所だった。ここは、いつも一人でメロンパンを食べていた場所。あの河川敷だ。

「……え?」

 思わず声が出た。余りにも自然にこの場に来ていたことに自分でも驚いていた。思い出の場所ではあった。だが同時にトラウマでもある場所。


「やっぱり、ここに戻ってくるよね」

 河川敷の下から聞こえた声。顔を覗かせると、階段の真ん中に座っている例のひとつ結びの女子が座っていた。

「……なんでここにいんの」

「呼ばれた気がしたから……かな」

「……誰に」

「さぁ。あんたじゃない?」

 そいつの言葉はまるで容量を得ない。僕が呼ぶわけがないのに。今この世で一番会いたくないのはこいつだ。別にこいつさえいなければ、なんて思ったりはしていない。僕が嫌悪しているのは、言ってしまえば人と関わる事を強制される世界そのものなのだから。

「あなたとは誰よりも会いたくなかったけど」

「でしょうね。でも、だからこそ私はここに呼ばれたんだと思う」

「意味わかんねぇ……用事ないなら帰ってくんないかな。僕も帰るから」

「まぁまぁそう言いなさんなって。とりあえずほら、ここ座んなよ」

 ひとつ結びの女子は座っている階段の横をトントン、と叩いて隣に座るように誘導する。

「……帰る」

「はぁ!? わっざわざこの美女があんたと話そうって言ってんだよ?」

「僕自分に自信あるタイプの人嫌いなんですよ、ナルシズムが気持ち悪い……なんで自分を好きでいられて、それを見せつけてくるのか意味がわかんない。本人は見せてて楽しいかもしれないけど、見せられてる側は苦痛なんですよ」

「あっそう……そりゃどうもすいませんね。せっかくメロンパン買ってきたのに……」

 思わず眉が動いてしまった。思い返せばここしばらく家から出ていなかったから、この好物を食べるのも久しい。でもこの女に弱みを握られ、釣られると言うのも非常に屈辱的だ。

「意地張ってないで一緒に食べよ? あたし2個は多くて食べらんないよ」

「……あぁ〜〜あぁ〜〜そうですかそうですか!! そんなに勿体無いなら食べるの手伝ってあげますよ! 仕っ方ねぇなぁ全くよォ!」

 僕は乱暴に彼女の隣にどすんと座り、彼女の手からメロンパンを奪い去る。

「やっぱ大好きじゃん、メロンパン」

「……まぁ好きっちゃ好きだよ」

「甘いもの好きなの?」

「ん〜……いや、他はそんなでもないかな。貰えれば食べるってくらい」

「そっか。なんでメロンパンがピンポイントで好きなの?」

 僕は奪ったそれを頬張りながら数秒俯く。

「ま、好きなものに理由なんていらな……」

「……憧れてるから」

 彼女の言葉を遮るように答えた。ムフムフと咽せながら、僕は言葉を紡ぐ。

「メロンパンってさ、メロンの形とか風味とかを真似て作られた……言い方が悪いけど、いわば模造品じゃん。だけどメロンにはメロンパンみたいなサクサクとかふわふわな食感はない。甘さの方向性もちょっと違う。最初はメロンの真似事でしかなかったはずなのに、メロンパン独特の良さとかアイデンティティって、メロンの偽物だったからこそできたものだから。それがなんか……良いなぁって」

 ふーん、と彼女は聞き流す。僕ら二人は無言でメロンパンを食べ続ける。ただメロンパンを齧る音、咀嚼する音、それと包みが擦れる音だけが静かになっている。

 それはそうだ。もとより大して面白い話でもない。他人から見れば、誰かのこだわりなんてそんなものだ。どんなに届けたくても届かない想いだってあるし、突き通したい願いも続かない。そういうものだ。そんなもんなんだ。

「……なるほどね。確かに美味しいね」

 彼女はただそう言って、僕の方に少し距離を詰める。元から端っこで遠のく場所のない僕は身をよじるばかり。

「考えたこともなかった。メロンパンとメロンを比べたこともなかった。似ているだけの別物で、そこに関係性があるなんて考えてこなかった。だから私はあんたの気持ちは100%はわかんないけど、言いたいことはなんとなく理解……いや、『把握』かな。把握はできたと思う」

「……今の無言、聞き流したんじゃなかったのかよ。興味ないもんなんじゃないの、こんなつまんない話」

「私だって真面目に話は聞くし、自分なりに咀嚼して解釈してみようとはしてるよ。でもきっとあんたには追いついてないと思う。だから理解はしきれてない。でも、考え方や考えるスピードの個人差はあるけど、それでも少しは考えてるつもりだよ」

「無理しなくて良いのに」

「無理……か。無理ではないかな、これは。方向性の間違えかねない努力だよ」

「解釈違いでもされてみろ、僕は苦しいよ」

「そこを一致させるのが難しいのが人間関係。だから苦しい」

「そう。それが苦しい」

「そう。だから苦しい」

 僕らの手元のメロンパンはどんどん小さくなっていく。それに成り代わるように、僕のお腹はほんのり温かいもので満たされてゆく。口の中にはザラメの甘さがふんわり残る。ここに微かな苦みのほしいところだけど、そんな大人な背伸びをしてみたいのは思春期のせいなのだろうか。

「みんな苦しいんだよ。あんただけじゃない。確かにあんたのツラさは誰にも肩代わりできないし、大きさも形もみんな違う。あんたと同じ痛みを共有してはやれないし、『周りもツライから我慢しろ』とか『そんなもんだよ』で片付けたくもない。たださ。ただ……」

「ただ……何さ」

 彼女は頬の横に寄せたメロンパンをごくりと飲み込む。

「ただ……だからこそわかってもらえるんじゃないかな。全員にじゃない、世間でもない。痛みのピースを埋めあえる人がいるんじゃないかな。私はあなたのそれになりたい」

 僕も噛み砕いたそれを飲み込む。そして一息吐いて、丸まるように俯いて顔を隠す。

「……やめてよ」

「何を……?」

「いや、なんでもない」

「遠慮しなくて良いから」

 本当に無遠慮に言ってしまって良いのか、と少し僕は悩み始めていた。嫌いだよ、人間のこと。そのはずなのに、今は少し、この人に嫌われるのが怖い。

「あなたはさ……チョコレートみたいな人だよね」

「……?」

 彼女はポカンとした顔で僕を見つめる。あぁ……そうそう。これだよ。変なことを言って白い目で見られる。何百回とこの光景は見てきた。だから嫌なんだ、人と話すのが。センスのズレを自覚すればするほど、自分がどこか世界と噛み合わない感じがして耐えられない。

 あぁ……でもいいや。言ってしまおう。そうして何度も僕は他人との関係を壊してしまっているけど。でももう……全部終わらせてしまえばいい。

「チョコってずるいんだよね。単体でも甘ったるくて美味しくて。そのくせ、何に掛けても主人公を奪い去っていく。チョコを混ぜたら、どんなお菓子だってみんなチョコになる。こっちの生き場所も個性も、全部吸われて。なんでも器用にこなせるチョコにはその浸食のツラさはわかんないよ。どんどん僕の生きられる場所が狭まっていく、その息苦しさを眼中にも入れていない。いや、気付きもしない」

「それが私ってこと?」

「形だって誰かに整えられて区画されてるくせして、誰とでもうまくやってさ。こっちはそんなふうにできないよ。普通の人と同じようにしてもどこかズレてて、普通の真似をいくらやったって同じようにうまくできない。『どうせ』君にはわからないと思うけどさぁ」

「……」

 あー……黙っちゃった。怒らせた。終わった……。また……またこれだよ。いつもの……いつも……いっつもこれだ。

「……ごめん」

「いや……ごめん。言いすぎた」

「そうじゃなくて。そう見られてたんだね、私。あんたからしたら、私みたいなのが居るだけで辛かったのかな」

「別にあなた個人がってわけじゃないけど……そうだよ。なんで同じようにできない、みんな普通にできてることが僕にはできないんだろうって。見てるだけで劣等感に押し潰されてツライよ」

「……ごめん。どう謝っていいかわからない」

「謝んないでよ、なんも悪くないんだから。僕が不甲斐ないだけであって。それにむしろ謝られると余計に惨めだから」

「じゃあどうすれば良い? 私は何をすればあなたは満足するの?」

「何もしなくていい。でも敢えて言えば……目の前から消えてほしい」

「……そう」

 彼女はそれから膝を抱えて何も言わなくなった。僕も無理に口を開けなくなった。お互い無言の時間がただ流れていく。何を話すでもなく、ただ隣り合って座る。ただそれだけの時間。

 二人の手元のメロンパンはいつの間にか消えていた。


「……あなたはさ」

「ん?」

 沈黙を破るように彼女から話題を振る。そのトーンは非常にシリアスなもので、今までにないほどに真剣そのものといった雰囲気だ。

「死……について考えたことある?」

「死ぬ、か。最近は常々『死にたい』って思って生きてるよ」

「そっか」

 とても乾いた反応を彼女は見せる。目はどこか虚で、その目はまるでまぶたの裏側へひっくり返ってしまいそうなほどに後ろ向きなものだった。

「なんでそんなこと聞くの? 僕が死にたそうだから?」

「うん」

「言っとくけど止めても無駄だよ」

「知ってる。だってお姉ちゃんがそうだったから」

「え……」

 僕は言葉を詰まらせる。喉の奥がキュッと締まって声が出ない。

「うち、元々片親なのね。お母さんは私が生まれてすぐに体調崩して亡くなっちゃったって聞いてる。そこからお父さんが一人で私とお姉ちゃんを育ててくれた。でもお姉ちゃん、母親がいないことが理由で周りからいじめられてたんだって。私が気付いた時にはもう……手遅れだった」

 『手遅れ』。その言葉を口ずさむ彼女はひどく悲しそうな顔をしていた。当たり前ではある。だけど、その悲しげな表情は見ていると段々とそれがまるで穴のように見えてくる。それはまるで、彼女の心に空いた二度と埋まらないものを感じ取っているようだった。

「それから私はいろんな事に気がつけるようになりたいと思った。あの時、思い返せばお姉ちゃんの周りには気付く為のヒントは転がってた。でもそれを私は気付けなくて、だからもう今度は同じ事になりたくないからいろんな事に気が付ける人になりたいって思った。その人の顔、仕草、持ち物、身だしなみ……ちょっとの変化が死へのカウントダウンかもしれないから」

「それで言うと……今の僕は随分とわかりやすいんじゃないかな」

「今は、ね。でも前に会った時、そこまで気が付けなかった。一人でいるのは知ってたし気にもなってた。でも話を聞いてみて、あなたの抱えてるものはもっと複雑で、私の元の価値観とは噛み合わないんだなって思い知った。フレンドリーに接したら心を開いてもらえるって思ったけど、やり方を間違えちゃったみたいでさ。ずっ……と後悔してた。謝りたかったし、もう一度話したかった」

「……そう言ってくれるの、すごく嬉しいよ。謝れなくてモヤモヤすんの、僕も辛いよ。全部わかるってわけじゃないけど、自分の経験に置き換えて考えると近しい気持ちにはなれてると思う」

「ありがとう。前、ごめんね」

「うん。もういいよ。怒ってない。」

 彼女はフッと小さく笑った。目を細めて口角を僅かに上げたその表情は随分と力のないもので、魂の抜けた器のようにも見えてしまう。本当にこれが、以前この場所で出会った人と同じ人なんだろうかと疑ってしまう程に。本当に生きているのか疑ってしまう程に。

「もう……なんかもう十分だな。最後にこうして人と話せてよかった」

 僕はそう小さく呟いて立ち上がる。帰るべき場所に帰ろう。もっともそれは、この世にはもう無いのだけれど。

「そっか。私も一緒に帰るよ」

「良いよ、一人で行く」

「今のあんた、放っておいたら二度と帰ってこれなそうなんだもん」

「……それは『死ぬな』って言いたいって事? 止めても無駄だよ」

「一緒にいてあげる。だからもう無理しないで」

「一緒に……か。どうでもいい相手とうまく付き合っていくことは誰にでもできるよ。でも僕が欲しいのはそういうんじゃない」

「じゃあ何が欲しいの?」

「一緒に生きてくれる人じゃなくて、一緒に死んでくれる人」

「なんで……?」

「それぐらい好きでいてくれてるって事じゃん? 命を預けられるくらいの好意……一生裏切られない程に確かな愛がほしい」

「……」

 僕は黙り込んだ彼女を死んだ目で見下ろす。そりゃそうだ。こんなことを聞かされて気分のいい人なんていない。まして、本当に大切な人を失った者の前でこんな話をするなんて無神経極まりないだろう。だけど一度でた言葉はもう二度と引っ込む事はないし、なかった事にはできない。

 僕は静かに河川敷の階段を降りていく、一歩一歩、ゆっくりとした足取りで降りていく。ふらり、ふらりと足に力の入らないまま歩みを進める。

 階段を降りきり、ボサボサに伸び放題な草をかき分けて水辺まで歩いていく。靴を通して水が靴下に染みていく。それは次第にくるぶしより上がり、ふくらはぎの骨に冷たさが伝っていき、太ももの震えが全身に伝染していく。


 不意にジャリッと後方から音が聞こえる。靴の底と砂や小石が擦れるような音。振り返ると、彼女がこちらに向かってきていた。

「……なんでこっち来んの?」

「君が望んだ事でしょ?」

「別に君個人に頼んでない」

「だとしても私がそうしたいからしてるだけ」

「……は?」

 僕の言葉を受け流して彼女も川の中へと侵入してくる。ダメだ。来ちゃダメだ。頼むから来るな。あなたまで巻き込む義理はない。頼む……一人で……そう心で叫んでも彼女は歩みを止めることはない。

「私もあなたと同じだった。いつもお姉ちゃんのことを考えて、なんで気付いてあげられなくて、なんで助けてあげられなくて、なんでなんでなんで……私が代わってあげたかった、死ぬべきは私で、お姉ちゃんは生きるべきで、それなのになんで……って。そうできる理由を探してた」

「だからって僕と一緒に死ぬ必要はないだろ……?」

「今じゃないとだめなの」

「なんで……」

「……お姉ちゃんも今のあなたと同じ目をしてたから」

 僕は立ち尽くした。そのまま動けないでいるうちに、彼女の靴は少しずつ濡れていく。

「来ちゃだめだ。君はまだ生きていける。その力がある。だから生きていないと。僕みたいにもうどうしようもない人間と違って、君は……」

「生きていることが幸せなの? 私だってあなたと同じ。違うけど、まったく違うけど、同じなの。同じものを持っているの。色も形も違う、でも同じものを」

 ザブザブと水を掻き分けて彼女は近づいてくる。服が濡れて気持ち悪いだろう、それでも構わず彼女は向かってくる。

「……チョコチップメロンパン」

「……えっ?」

 彼女の不意の言葉に思わず聞き返す。

「あなたはメロンを模ったメロンパン。もし私がチョコレートだとして、もしあなたがメロンだとしたら一緒に食べても合わないと思う。それはメロンじゃない、メロンパンだから引き合えた魅力なんじゃないかな」

 彼女の真剣な眼差しが僕の胸に突き刺さる。ひどく寒そうで体は震え、ひとつに結んだ髪は乱れ、そんなとてもきれいとは言えない彼女のその姿はとても強く僕には映っている。

「僕は……メロンパンじゃないよ。メロンパンに憧れてるんだ。誰かの真似だとしても、良さを持てた存在に。僕は真似をしても似ても似つかない粗悪品。模造品にすらなれない失敗作。僕なんて……」

 ザブン。

 言い終わる前に彼女は僕に掴み掛かり、僕の上体を押し倒す。あわや溺れそうになったが、水の浮力が体におかげで態勢を立て直せた。

「……お姉ちゃんもそうだったんだけどさ。もうそれ以上、自分のことを悪く言うのやめてよ。言ってる方は酔ってるかもしれないけど、聞いてる方はツラいんだよ」

「……ごめん」

 僕は顔を手で覆い隠す。『酔ってる』か。そんなつもりは無かった。無かったけど、もしかしたら無意識にそうだったのかな。自分は悲劇の中にいて、その主人公で、そんな都合のいい妄想の中で酔っていたのかな。もしそうなら誰よりもかっこ悪い。なおさら生きてる価値なんて……

「これ以上、自分の好きな人の悪口は聞きたくないの」

「……そっか」

「……え、今の伝わってない?」

「いや……ありがとう。でももう他人に興味持てないから。死に間際にもう何もかもどうだっていい」

「そう……だったら興味、持たせてあげる」

 そう言うと彼女はその華奢な体を川のもっと深い方へと放り出した。川の中央は流れが速く、服の重みに身を任せた彼女は一瞬でその流れに飲まれて沈んでいく。

 待って……ダメだ。死んじゃだめだ。生きて……頼むから生きてくれ。僕の目の前で死ぬな。他人の死なんて背負えてたまるか。

 僕は沈みゆく彼女の腕を掴み、力任せに引き上げる。水面から顔を出した彼女は苦しそうに咳をしながら胸を抑えている。喘息のように引きつった彼女の喉の音がとても苦しそうで、僕は何かにならないかと背中を摩る。

「ありがとう……大丈夫みたい」

 彼女はそう言っているが、その体は生まれたての小鹿のように小刻みに震えている。先程までの寒さから来る震えとは、まるで違う震えだった。

「本当に死ぬやつがあるか……目の前で死なれたら僕だって死ぬに死にきれないじゃんか」

「そう思うなら生きて。あなたが死ぬって言うなら私も一緒に死ぬ。また同じようにあなたの目の前で。私と同じ苦しみをあなたに残して死んでやる!」

「そんな……」

「それが嫌なら生きなさい。あなたの命はあなたひとりのものじゃない、私やご両親や、いろんな人と繋がってるの。私に死んでほしくないのなら、あなたが生きて」

 彼女はそう言って僕の胸を小さな拳で力なく叩く。何度も何度も、祈るように何度も打ち付ける。たまらず僕はその拳を握りしめる。

「死ねって言われたら簡単に死んでやるけどさ。今の僕に生きろって言われたって……もう立つ気力もないよ」

 僕は水に身を任せるように体を寝そべらせる。僕も咄嗟に目の前で人に死なれそうになって、体に力が入らない。

「無理してかっこつけて生きなくったっていい。不可能だと思うなら違う歩き方があるじゃない。無理に立てないなら匍匐前進でもいいんだよ」

「そっか……でもやだなぁ……かっこ悪いのは」

「……このナルシスト」

「うるさい。もう喋るな」

 僕は小さく笑いながら言い返す。彼女の顔を覗くと、彼女も同じように笑っていた。

 僕はふと彼女の髪に目が行く。特徴的だった彼女の髪型、ひとつ結びからヘアゴムが外れている。

「ヘアゴム、どっか行っちゃったね」

「あぁ……あれ、お姉ちゃんの形見だったのに。同じ髪型にしてたんだけどな……」

 そう言いながら少し残念そうにする彼女の顔は、それでもどこか悪くなさそうだった。

「今の方が似合ってる。……気がする」

「……うっさい」

 彼女の拳がみぞおちに食い込む。僕はえずきながら水面に倒れた。彼女はそれに追撃するように僕の上に覆いかぶさった。


 僕らはそれからしばらく水死体のように川を流れていった。流れに身を任せ、内面の大切な何かをを殺し、それでも流れていく。それが人間だ。まるで今の僕らのように。

 それでも生きていかないといけない。生まれてしまった以上はその命を全うしなければいけない。それがこの世に産まれ落ちてしまった罪に対する罰なんだろう。神様からしたらこの現世は流刑地に見えてて、僕らは差し詰め囚人で、刑期を遂げるのを見て笑っているんだろう。

 それならそれでもいい。だったらその罪に向き合わなければいけない。どれだけ抗おうといずれ死は訪れる。それが裁きだとするのなら、裁くのは囚人にできる事じゃない。僕らは裁かれる側で、黙って受け入れる事しかできない。

 それならそれなりに刑期を待とう。いつか訪れる許しの時まで、この現世という監獄の中で。この地獄から逃げた先に待つのは、もっと恐ろしい地獄だと。そう思うことでしか、この牢獄では生きてはいけないだろう。

 それでも、僕は。


 チョコチップメロンパン。メロンを模倣して作られたメロンパンに、細かくしたチョコを付け足したもの。人にもよるが、これは本来のメロンパンだけでは味わえない味が増えている。

 人間だってそうだ。みんな誰かの真似をして生きる。そして他の誰かと共生して、その要素を取り込んで自分を変えていく。それを無駄とするか、それとも独りでは得られなかった良さと捉えるか。それは人の好み次第だ。

 僕はこれまでそれを嫌ってきた。チョコレートという甘ったるい無駄なものを取り入れたくない、自分が自分でなくなるのが怖かったから。でも、今なら。少し悪くない気がしてる。

 自分を強く持て。自分の色を、形を、味を信じて。でもたまにエッセンスも入れたっていい。

 主人公は自分自身だ。


 ーー何年か経って。


 あれから僕は通信制の高校に転入した。無理して人と関わらない生活のせいで大学の面接では苦労したが、それでも受け入れてくれた場所は有難いことにあり、そこで4年間すごした後に就職した。

 人との関わり合いは相変わらず不得意で、難儀することがとても多い。擦られ揉まれ、それでも僕は生きている。

 本気で死のうと考えたおかげで、どんなにつらくても今は『それでも、生きているから』と思えている。だからどれだけつらくても前を向ける。高校時代の経験は、歪な形だが確かに僕の中で根付いている。


 仕事の帰り、昔からの行きつけのパン屋に寄った。あれから新しい商品はどんどん増えて、店内に所狭しと多種多様なパンの温かく甘い香りが漂っている。それが相変わらず好きだった。

 ふとレジ近くの棚に目をやる。そこには『ロングセラー‼』と一新されたポップで飾られた出来立てのチョコチップメロンパンが並んでいた。

 僕はそれをふたつトングで掴んでトレーに乗せる。今はあの頃とは随分と変わった。いろんな意味で。

 甘い香りのする紙袋とカバンを抱え、かつて一度死んだ川の河川敷を歩く。今はもう遊泳が禁止されている。何年か前、ふたりの高校生が亡くなる痛ましい事件があって以降は近寄ることも禁じられており、あの頃よく座っていた階段にはカラーコーンが立っている。


 ほんのりと温かい紙袋を携え、玄関のドアを開ける。

「ただいま。これ、いつもの」

 僕はそう言ってチョコチップメロンパンがふたつ入った紙袋を手渡す。長い髪を下した彼女は、仕方なさそうに小さく微笑んだ。 

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