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まるで成長していない……(経済が)

日本のGDPが世界4位に転落したとして話題になっています。

かつては世界2位のGDPを誇り"Japan as No.1"などと称賛されていたこともある日本経済の落ち目っぷりに、「賃金が上がらないからだ」「生産性向上が足りないからだ」などなど抜本的な改革を求める声があちこちで上がっています。

江草的には、以前から予想されてた展開なのでさほど驚きはなかったのですが、まあ、住んでる国が衰退していくのを目の当たりにするのは嬉しいことではないですね。

江草もここnoteで色々と資本主義批判ぽい論考を繰り広げているので、もしかすると誤解されてる可能性もあるかなと思うのですが、江草は実は「経済成長は良いことだ」と思ってる派です。

経済成長するにこしたことはありません。

ただ、だからこそ、ここで問題になるのは、経済成長が大事であるがゆえに、それが見せかけのハリボテだったらダメだろうということです。

経済成長が大事だと思っているからこそ「本当に経済成長してるのか」にこだわるわけですね。


江草が問題意識をもう少し具体的に言うと、昨今の経済の凋落はそもそも賃金がどうとか、生産性向上がどうとか、それ以前の問題なのではないかということです。

世の中的には、今までずっと経済が成長してきていたのが、その成長が鈍化して、ついにはマイナス成長になってピンチ、というのが一般的な認識だと思います。

でもね、そもそも今まで本当に真の意味で経済成長してたんでしょうか?

こう言うと、皆さんは「何を言ってるんだ、確かに停滞してる時期はあるし基本低成長ながらも、長期的に見たらGDPは着実に上がってきているじゃないか」と思われるかもしれません。


世界経済のネタ帳」より

なるほど確かに、GDPという数値上は上がっています。

でも、GDPというのはあくまで数値指標に過ぎません。指標が良い指標であるために不可欠な要件は、「真に見たいものに沿っていること」です。「トラッキングエラーが少ないこと」と言ってもいいでしょう。

理想を言えば、完全に指標が「真に見たいもの」と一致してるのがいいのですが、世の中そんな甘い話はなく現実として難しいです。だからこそ、指標を盲信せずに、時折、「指標」と「真に見たいもの」が乖離してないかどうか、乖離しているとしてその程度はどれほどか、に気を払う必要があるのです。

このように時々「指標の妥当性」をチェックしておかないと「全然見たいものが見れてない」という目も当てられない惨状になりかねません。頼りにしてる方位磁針が狂ってたら遭難するのと同じです。指標という方位磁針が「見たいものを適切に表示できているか」の適宜チェックとキャリブレーション(調整)は絶対不可欠なんですね。

つまり、江草が疑っているのは、GDPのトラッキングエラーです。すなわち、もはやGDPという数値は「私たちが真の意味で期待している経済成長」を反映していないのではないかということです。


もっとも、GDPという数値指標の限界については最近では多数の指摘がなされるようになってきていて、江草が説明するまでもありません(というより、ド素人の江草ごときではちゃんとした説明能力がないと言うのが正確ですけれど)。

今回のGDP4位転落を受けての解説記事でもサラッとGDPの限界についての簡単な説明が出てくるぐらいですし、十分に周知されている問題であると言えます。

Q GDPは万能ではない?
A デジタル化の普及で広がっている無料のサービスなどはGDPで捕捉できない。また、活発な生産活動でGDPが増加しても、その背後に環境破壊や人権侵害があれば持続可能な成長とはいえない。昨年の先進7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議では、GDPでは測れない「真の幸福」につながる経済政策の必要性について初めて議論が行われた。


より硬派なものも紹介しておくと、そのものずばりGDPについて解説してる書籍『GDP』でも、GDPの限界の指摘と、新たな指標案の模索がされています。


そんなわけで、GDPの「指標としての限界」については既に議論の俎上に上がってると言えます。(ただ、今回の報道で巷の方々が一様にGDPランキングの上がり下がりに一喜一憂してる感じは、まだまだGDP信仰が根強すぎるかなと思わせられますが)

なのですが、せっかくなので今回江草が指摘したいのは、あまり指摘されていない、また別の側面での「GDPの死角」です。

この死角を長らく見過ごしてきたために、「GDPという指標により経済成長を正確に把握できてない」どころではなく、「そもそも今まで真の意味で経済成長なんてしてなかった」というヤバすぎる現状なのではないか。江草はそう疑い始めているのです。


ところで、いきなり話は変わるようですが、うちの子ども(2歳)の成長が著しいです。

ついこないだまで、よちよち歩きで単語を言うだけで大騒ぎだった気がするのに、最近どんどん言葉を覚えて普通に意思疎通もできるようになり、ジャンプもできるし、簡単な工作なら自分でできるようになってきました。

そんな子どもの様子を見てると、ベンチャー企業が言いがちな「圧倒的成長」というスローガンに真に相応しいのは子どもたちなのかなと思います。

しかし、ご存知の通り、世の中では急速に少子化が進行しています。日本はもちろんのこと、世界的にもそうです。最近では少子化対策優等生と目されていたフィンランドまで結局再び出生率が減少したとして話題になっていました。

つまり、「圧倒的成長」の担い手である子どもたちが世界から急速に消滅してきているわけですね。


この全体像を見て江草は思うんですよ。

これまでの世界的な経済成長(GDP上昇)は「子どもたちの成長」を犠牲にした前借り成長に過ぎなかったのではないか。

と。

言い換えれば「世界経済は将来の世界人口を食い破ることでGDPを上げていただけではないか」ということです。

さらに換言すればこうなります。

「私たちは将来の成長を犠牲に目先の数値上の成長を取り続ける愚を犯してしまった」と。


GDPというのは要するに生産と消費の循環である経済活動規模を表しているわけですから、とにもかくにも経済活動(仕事)に従事する人を増やせば上がることになります。

ここで「GDP上昇=経済成長である」という単純な見方で、GDP上昇を社会的に図るとどうなるかといえば「働ける者は皆働けぃ」となります。

そして、実際に、男女問わず働く共働き社会が到来しました。専業主婦ももはや絶滅危惧種であり、労働可能年齢の人材は誰も彼もが働いている、そういう時代です。

共働き文化それ自体は、自己実現とか女性の解放とか、そういう側面での良い点はありました。だから、これが別に悪い動きとは思っていません。

ただ、問題なのは、それと引き換えに、育児にかかる労が社会的に省かれるようになったことです。男女問わず誰も彼もが仕事(経済)を優先する社会になったために、必然的に妊娠出産育児など子どもにかける労力や時間が後回しになったわけです。

子どもの「圧倒的成長」と引き換えに、経済の「数値上の成長」を取ったという図式がここにあります。


ところが、ローカルな場(国単位)での少子化、あるいは人口減少というのは意外とすぐには問題にならないんですね。だって、国内に労働者がいなかったら外国にそれを求めたらいいわけですから。実際、日本経済も外国に工場を建てたり、海外からの労働者を呼び寄せたりして回していました。

むしろ、誰も彼もが働く(経済に参加する)ことで、GDP的には有利になります。経済成長を誰もが第一に望むがゆえに、GDPが上がっているなら他のことは瑣末なことであるとして大して問題になりません。それどころか、GDPの上昇が鈍化するとその経済的危機感が後押しになり、男女を問わず誰も彼もが仕事を得て働くことは素晴らしいことだと積極的に推進すらされたわけです。

ところが、これがグローバル(世界的)に少子化と人口減少が進行するとどうなるか。国内経済の担い手が減少したからといって外国に労働力を求めようにも、その頃にはどこの国の労働力も減って奪い合いになってます。

生産と消費の担い手である人口が世界的に減少することは、必然、世界経済の成長に対する強力な足枷となるわけです。

つまり、こういうことになります。

短期的な経済成長の数値目標(GDP)の維持向上に目を奪われた結果、私たちの世界は人口を維持できず長期的な経済成長の礎を毀損してしまったと。

これが先ほど指摘した「将来の人口を食べて目先の経済成長を果たしていたに過ぎない」ということの意味になります。

このことを思いやるに、今までGDPという数値上では世界経済は成長してきた風にはなっていますが、これが真の経済成長であったと言えるかに疑問が出てくるわけです。


これは別に一風変わったことを言ってるわけではありません。むしろ資本主義の本丸と言える株式会社の経営でも同様の問題は知られています。

株式会社がオーナーである株主たちに恩恵を与えるためにお金を配る「配当」という仕組みは有名ですよね。

普通は、得られた利益からその配当を出すのが自然なのですが、もし株主たちが近視眼的に「とにかく配当をよこせ」という態度であるとどうなるか。利益が十分に得られていたらいいですが、それでは株主たちが満足しない十分な配当が保てないとなると、会社の資産を売却したり、従業員を解雇して浮いたお金で配当をふんだんにバラまくことになります。

これは短期的には確かに配当を維持できるのですけれど、資産や従業員(人的資産)が失われることによって将来の企業利益を上げる礎が毀損されてるという点で、ますます配当金の源となる利益が上げられなくなるという悪循環に陥ることになります。

こうした自己資産を犠牲に配当を出すことは「タコ足配当」と呼ばれ、基本的には勧められない配当態度として認知されています。

タコ足配当とは、企業が原資となる十分な利益がないにもかかわらず、過分な配当金を出すことをいいます。見た目には配当金が高いため魅力的に感じられますが、実際は資産を売却したり、積み立て金を取り崩したりして配当金に回しているだけで、業績や財務状況に難点がある可能性があります。タコが自分の足を食べるのに似ていることから、このように表現されます。

長期的に利益が損なわれることが分かってるので普通は株主たちもこれを良しとはしません。ただ、近視眼的に目先の金を欲する株主たちが多くなると、こういう危険な「タコ足配当」を惹起する可能性はあるわけです。

でも、目先のGDPの上昇にばかりこだわってしまっていたこれまでの社会の姿勢は、実のところ、「タコ足配当」ならぬ「タコ足経済」だったんじゃないでしょうか。

「将来の人口」という世界的な人的資本を毀損して(「短期的コストテイカーである子どもたちをリストラして」という表現もできるかもしれません)、目先の経済成長を取ってしまったのは、ただ自分の身を自分で食べて「(経済成長)うめー」と喜んでいただけの愚に過ぎなかった。そんな「世界的やらかし」であった。こう江草は思うわけです。

「タコ足配当」が成長する企業として失格とみなされるのと同様に、「タコ足経済」だって成長する経済として失格であるはずです。

だから、「配当金」という数値が保たれているだけでは実際には成長していない(どころか成長が危ぶまれる経営実態である)のと同様に、いかにこれまでGDPという数値上で成長しているように見えても、それは「真の意味では全然経済成長していなかった」と考えるべきではないでしょうか。

冒頭でも述べたように、江草は「経済成長は良いことだ」と思っている派です。しかし、それは真の意味の経済成長を指しているのであって、目先だけの数値指標の上昇志向や、短期的な「タコ足経済」などは、真に経済成長を求める立場であるからこそ許せないのです。


だいぶ長くなったので、そろそろ、締めにしましょうか。

「日本がGDP4位陥落」というニュースによって、「賃金上昇」や「生産性向上」などとにわかにGDP維持のためのシュプレヒコールが巻き起こっています。

それらはそれらで検討の意義がないとは言いませんが、そもそものGDPという数値の限界や、そもそもこれまで真の意味で世界は経済成長してたのか、という大問題の認知を抜きにしては、それこそ短絡的な愚を今後も続けてしまうことになりかねません。

皆が本当に経済成長を求めるならば、当然にこれらの「そもそも論」的な問題にも気を払うべきかと思うのです。




※タイトルは誰もがご存知の漫画『スラムダンク』の名ミームのオマージュです。


参考書籍&記事

Appendixとして世界的人口減少についての書籍とその感想文を付記しておきます。

『人口大逆転』

『2050年 世界人口大減少』

『GDP』

再掲しますが、忘れちゃいけないこちらも良書。

↓過去ブログのアーカイブになりますが、感想文も書いてます。

ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』読書感想文~「GDPとはどういう存在なのか」のイメージがよくつかめる良書~ ーexaray.blog


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