自己も語る
幼少期の頃、自分にとって母はすごい人だった。分からない事があったら母に聞けば全て教えてくれたし 母は英語だって読めた。遅刻や提出物期限にはめっぽう厳しく、曲がった事が嫌いだった。母は真面目で強くて、私に常にストレートに向き合っていた。
これは 一人っ子の私が、尊敬するシングルマザーの母に抱いていた想いだ。私はそんな母が大好きだった。でも母が笑ってるところはあまり見たことは無かった。母に友達はいなかった。
今 この歳になって冷静になって考えた事がある。この歳になってから考えた事なので真実ではないと思うが、
分からない事があったら母に聞けば全て教えてくれたのは、母は私にとって唯一な大人だった為、必死に教えるしかなかったから。
母は真面目だったのは、私に常にストレートに向き合っていた、という訳ではなく、誰の力も借りずに小娘を育て上げようと意地を張っていたからだと思う。母も列記とした弱い人間だったようだ。
私が小学6年生になった時、母は再婚した。晴れてシングルマザーを卒業したのだ。それからというもの 子供用の小さなプレートに並べられた少量のおかずと炊飯器で焼けきった米を認知症の義祖母と2人きりで食べる毎日が始まった。体育着は常に洗濯されず 毎日お風呂に入れない。私の両腕には鮮やか痣が出来たり、勉強をしたら馬鹿にされ、罵声を浴びせられたりしていた。でも、何でかはわからないが、そういうものだと思っていた。犬の散歩と部活は楽しかった。
実は母は、この父と再婚する前に別の男と結婚を前提に付き合っていた。私は現状を変えたくなく、その結婚に反対した時に言われた
「あんたなんか産まなきゃ良かった」
その言葉が脳裏に焼き付いていた為、強く出ることはできなかった。
母は完全に父に操られ 私に見向きもしなくなっていた。何より唯一信じていた母が、私の未来を思って再婚を選んだのだからこれ以上の幸せはない、と恨めなかった。
私が18歳になった時 一家は離散した。
私は布団を車に積み、まとまったお金が手に入るまで車で生活した。父は弁護士を通し、私との離縁届を提出して金輪際関わることはなくなった。母は私の前から姿を消し、別の男の所に行った。その時から母という存在を恨み、妬み、そして考えた。
母は恐らく母親という立場が嫌で、18年間、母は自分自身から逃げていたのではないか、と考えた。
そう考えると生まれてしまった私はもちろん申し訳ないのだが 母親という呪縛を解いてしまった今はどんな心境で生きているのだろうか。
人間は子供を産んだら育てるのは当たり前ではない 子育てに、ほんの少しでもゆとりがあれば、趣味があれば、相談する人がいたら、人生は変わったのではないか。
これは他人事ではない。自分だって、何時でも同じ境遇になるのだ。だから今でも子供を産むという事を真剣に考えた時に引っかかる何かがある。
私は児童発達支援の管理責任者までなれた。なれたからと言って過去が変わる訳ではない。自分の傷が癒える訳でもない。でも同じ境遇の人の未来が変わるかもしれない。
今日も私はご飯をたくさんたべて洗濯機を回してお風呂に入る。色々な人と喋って色んな感情に耳を傾ける。大好きな人を嫌いにならない為に。