【映画】眩暈 Vertigo

『眩暈 Vertigo』に寄せた試写会感想の再掲

恥ずかしながらジョナス・メカスの作品を一度も観たことがなく、吉増剛造の大ファンというわけでもないのに、特設サイトを覗いた時、なぜかこの映画を観たいと思いました。説明書きから、ひとりの人間が旅に出て、ひとりの人間を追悼する映画らしい、ということが分かったからかもしれません。亡くなった人が食べて寝て起きて、の繰り返しを過ごした生活の場に足を踏み入れるとは、とてつもない旅ではないか、と思ったのです。懐かしんだり思い出を語ったり、という温かくて安全な旅にはとどまり得ず、遂にかたち
にされなかった経験が永遠に失われたと分かること、その人がおくびにも出さなかった何かを発見した瞬間、もう後戻りはできないこと、そんな危うさが伴う旅になるのではないか、と想像しました。そのような危うさのなかで詩人である吉増氏は、メカスをどのように悼むのだろう。井上春生監督は、そんな危うい旅を、どのように一編の映像にまとめるのだろう。それが知りたくて、試写会に足を運びました。

血が通い、一秒一秒呼吸を繰り返す自らの身体でもって、跡形もなく輪郭が消えてしまった身体を辿る吉増氏。メカスの愛したリールの回転音に、彼がしたようにそっと、耳を澄ませる。コニーアイランドの海風に、彼がしたようにそっと、身を流していく。スクリーンに映し出されるそうした姿をただただ受動的に眺めるなかでふっと、ある考えが形をとりました。最も原始的でそれでいて究極的な追悼のありかたは、模倣することだったのではないか。だとしたら、そんな模倣のなかでも、最も原始的で究極的なありかた
が、眩暈することだったのではないか。廃墟のように荒廃したヨーロッパから難民として船に乗ったメカスが、初めて目にした摩天楼。地下鉄のホームで、覚えたばかりのステップを夢中になって踏んでいる二人の少女。それらに晒されたメカスの身体に、震えは積もりに積もっていった。震えの束を乗せて運んでいた身体はある日、音もなく消えた。それでも、かつてこの空間に確かにあった身体に、もう一つの身体を沿わせたとき、積もりに積もった震えを一身に模倣して、眩暈した。束になった震えをつい模倣してしまう、そんな幸運な身体を持ち合わせている人は、きっとそれほど多くない。そして吉増氏はその僅かな一人だった。あるいは、ただ一人だったのかもしれない。食べて寝て起きての繰り返しの生活に潜んでいる、一度きりの震えを捉える眼、そんな日記を書く眼に根差した表現者同士ゆえに、起きたことなのだろう。その眼が掴んだことを、なかったことにしたくないし、できない人たちが、どうしようもなく日記を書き続けている。なかったことにしてもいいし、なかったことにできる人たちは日記を書くのをいつの間にかやめてしまう。

Oh, Madmoiselle Kinka!かつてメカスを震わせた摩天楼の隙間から覗く空を見上げた吉増氏が呟いた、その体の奥底にある金華山の微かな道を踏みしめていった先でゆっくりこちらを振り向いたひまわり色の女。そこで場面は切り替わり、あれは幻だったんじゃないか、いやでも確かにあそこであれを見たんだよなあ、そう首を傾げてしまうような断片がたくさん、一度観ただけではまだ分からないことだらけの映画です。でも劇場で観るかたは、一度だけそっと、眼を閉じてみてください。瞼の裏のちらつき、その光りの揺れは柔らかくて、それでいてもう安全ではいられない。メカスの眼の震えの一端を掴んでしまってもう後戻りはできない、一方通行の旅でした。


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