「深瀬昌久 1961-1991レトロスペクティブ」 動き/かたち

東京都写真美術館に『深瀬昌久 1961-1991レトロスペクティブ』をみにいったときの話。

深瀬の初期の作品に見て取れるのは、かたちへの偏愛、「または」恋人と過ごす日常への素朴な愛おしさのようなものだった。一方の極に、名前のない人間の臀部や背中を並べた、マン・レイを彷彿とさせる抽象表現がある。もう片方の極には、川上幸代という個人を収めたポートレートがある。その両極が、<屠>の時期くらいから距離を縮めて混じりあいはじめる。日常に潜んでいるというよりはごろんと転がっている不気味さを、ユーモアと一緒に剥き出しにする写真へ変わっていった。そうした方向性を持った深瀬の写真、写真史では「私写真」に分類される作品群の一つの頂点が、展示のメインビジュアルでもあった《無題(窓から)》の一枚ではないか。

《無題(窓から)》〈洋子〉より 1973年 ©深瀬昌久アーカイブス

半開きの目と口、日常をただ過ごすときには逃すほかない、女であることを含んだ一切の意味を失った顔だ。それは深瀬も洋子も知らない顔だ。顔以外の身体は、ひと続きになって、それは指揮をしている身体にも見える。でもそれは、歌っている身体に見えてもいいし踊っている身体に見えてもいいし、いずれにせよその指が示すものが写真の外側にぷつんと切れてしまっているように、身体の意味もぷつんと切れてしまっている。シャッターが切られた数ミリ秒のあとには、洋子の顔は急速に意味を回復したんだろう。

洋子と離れたあと深瀬は人あたりしてしまったかのように、名前のないカラスにレンズを向けた、それらのカラスは初期の抽象表現への回帰のようにも見えた。カラスが複数でも単数でも、カラスはかたちだった。しかし、たまたま映りこんでいたありふれた日常のかたちとしてのカラスだからこそ、それは初期のかたちとの<遊戯>とは違う様相を呈していた。猫たちはカラスと違って、名前を持つ。しかし彼らは動きのある存在であることを求められた。動く猫の動きをあえて止めることで現れる、無意味なかたちを所有することが深瀬の欲望で、その欲望はかつて洋子に向けられたものだった。動くことで、深瀬にとっての他者であり続けることを求められた、かわいそうなサスケ。

友人が、深瀬は「カラスを撮り続けることで自分がカラスであることに気づいた」んだと教えてくれた。そうして深瀬のレンズが遂に自らに向き始める。周りのもの全てを切り取り切ったレンズが遂に自分の身体を削りとっていった写真群のどこに目をやれば良いか分からないので、見る者の視線は泳ぐ。代わりに、ちょうど一年前に読んだカフカの詩でみた原野を思い浮かべていた。

ああ、インディアンになれたらなあ、取るものも取りあえず疾駆する馬にまたがり、斜めに空をつんざき、震える大地の上を、いくたびも小刻みに震え、やがては拍車を脱ぎすて、だって拍車は必要なかったんだ、やがては手綱を投げうち、だって手綱は必要なかったんだ、そして目の前の大地のきれいに刈り取られた原野が見えたかと思うと、もう馬の頸もなく、馬の頭もなくなってしまった。

拍車が消え、馬の首も頭も消え、騎手も遂に消え去り、動きだけが残った。父親が消え、洋子が消え、サスケが消え、深瀬も遂に消え去り、動きだけが残った。ゴールデン街の階段から転落してから深瀬の作品発表は途絶え、二十年の療養生活を経て亡くなった。動きを止めることでかたちを捉え、そのたびに少しずつその両方を失っていった身体が遂に原野に放り出され、消え去るまでの歴史を想起させる展示だった。


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