泡沫のゆめ

はばたきを忘れないで。
と先生は言った。最後にそれだけ言って、もやで覆われたとびらのむこうに消えていった。
まばたきじゃないんですか、先生。あなたの姿を見失いたくないから、わたし、まばたきができません。
そんな間抜けた質問なんて口に出せず。
暗闇のなかにとけた先生のシルエットは、2度と再び像を結ぶことはなかった。

あの日''眠り''から醒めなかったらと、どれだけ願っただろう。
がさがさと耳元で踊る髪をおさえつけて、わたしは深く息を吸い込む。朝のつめたい、鋭くとがったくうきが、全身にめぐる心地がする。
学校の非常階段。3階踊り場。
校舎と階段をへだてる引き戸にはまったガラスには、わたしの姿がぼんやりとうつっている。まるであの時の先生みたいだ、と思う。
手を伸ばしてもとどかない、触れられるのは虚像だけ。ぺたり、とガラスに触れてみる。しびれるような冷たさ。
あれからまだ2日と経っていないのに、もう先生の声を思いだせない。すがるように目を閉じても、もう2度と、先生には会えないのだ。
ああだけど。
ガラスにうつりこむ自分らしき姿を見つめる。
向こう側のわたしは、いつでも先生に会えるのだろうか。先生は言ってしまえば虚像だ。このわたしみたいな。だったら、実像を持たないわたしだったら、

いいえ。
と首をふる。
先生はたぶん実像を持っている。たぶんだけど、この、こちらの世界に息づいている。生きて、いる。
わたしが会ったのは、''息をしていない''先生なのだろう。それを思うと寂しいような、悲しいような気持ちになる。
だけれど。そんな先生が、わたしは好きだったんだわ。いつだって先生の顔はよく見えなかったけど。先生をつつみこむあたたかな空気は、なんとも言えない安心感をあたえてくれた。
死んでしまった愛犬リズのはらに顔をうずめる、あの幸福感ににていた。いとしくて、守ってやらなくてはいけないと思うのに、それでいてなんでも受け止めてくれるような、そんな気がした。
やさしい、気持ちになれた。

先生は、なんでも知っていた。
わたしに足りない大事なものを、先生はぜんぶ持っていた。そして、それをぜんぶ、わたしにくれた。
だからわたしは、あのひとを先生と呼んだ。
いつまでもあのやわらかで形の無い世界のなかで、一緒にいられると思っていた。あの世界ではすべてがあやふやで、ただひとつ分かるのは先生がいることだけだったのに、そこに行けば本当の自分が見つかる気がしていた。

真夜中、目が覚めたとき。授業中、ふいに窓の外をながめたとき。ゆめから、醒めた、とき。
とつぜん、自分が空っぽだったことに気づくのだ。
そろそろ本当の自分を迎えに行かなくちゃ。別の''なにか''が入りこんでしまう前に、とりもどしに行かなくちゃ。
あっ、と気づいたら、わたしはただの容れ物で。何者でもない誰かになっていた。
そんなことがたびたび起きて、そんなときわたしは先生に会いに行った。あの、閉塞的で安全な世界に。

消えるなんて、思いもしなかったのだ。
はばたき。
はばたきを、わすれないで。
どういう、意味だろう。
ひとは空は飛べないし、きれいな羽も翼もはえていない。ぱちぱち、まばたきをしてみる。これじゃ、だめなんだろうか。だめなんだろうな。
先生は、こんなわたしをどこかで見ているのだろうか。たくさんかんがえて、拾っては取り零す不器用なわたしを笑っているのだろうか。
だけどね、先生。悩んで悩んだわたしは、空の高さを知りました。非常階段の踊り場では風が強まること、まばたきとはばたきのちがい、寒くなると聞こえてくる遠くの工場のおと。秋から冬に変わる匂い、''友達''ということばの甘やかさ。はじめて、知ったんです。寒くなると風がごうんごうん、地響きみたいな工場のおとを学校まではこんでくること、先生は知っていますか?
いろいろな感覚を知った。
だけど、先生、
やっぱり、
やっぱりね、
はばたけないんです。

◇◇◇◇◇◇◇◇

手紙を見つけた。古くてほこりっぽい、黄ばんだ紙。
ルーズリーフの上のほうには、書きかけの数式。
その下の散らかるように書かれた文字。私の字だ。手紙なんていうにはあまりにぐちゃぐちゃで、まとまりがなく、突飛だ。
先生。
ありふれたひびき。だけれど、私にとっては苦しいほどなつかしいひびき。
ない翼をはばたかせようと必死になっていたあの頃。必死に足がかりを見つけようとあがくあいだに、いつしか見ているものが変わっていた。
はばたくため、なんていう曖昧なゆめなんかじゃなく。明確な、夢。叶えるための夢。
すすむべき道は、まっすぐ光の道となって見えていた。だからあとは、これだけ、だった。
ーはばたきを忘れない。
はばたきなんてのは、ただの比喩だ。これ以上ないほど正しい、たとえ。
努力をおこたるな。
言い換えればそんなものだ。だけど、あのときの先生の言葉がいつでも私の背中を押した。だから私は、夢を叶えたのだ。
大事なものは、目に見えなかった。
そして、大事なひとも、目に見えない。
そう、思っていたけれど。
ルーズリーフを引き出しにしまいこむ。できるだけ奥のほうに。部屋を出て、寝室にはいる。あたたかいベッドにダイブする。

先生、ありがとう、って言ってなかったね。言わなくちゃいけないけれど、先に消えたのは先生だもの、文句は言わせない。
ありがとうって、いつか伝えるから。
だけどね。先生、とはもう、呼んでやらない。

くすりと笑いがもれる。となりで眠るたった1つ年上の夫の寝顔を、ゆびさきでついた。

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