first morning

 雨が降っている。
それ自体はべつにおかしなことではない。
雨の出どころが、油のしみついた天井、でなければ。
台所でゆで卵を作っていたはずだった。朝の5時。腹がすいて目が覚めて、それきり眠れなくなった。仕方がないから少し早い朝めしを、と思ったのだ。
水が沸いて7分。彼女に昔言われたとおりにタイマーをセットして、椅子にこしかけ、コンロの火がおどる音をぼんやりと聞く。
そして気づけば俺は、雨に降られていた。
なまあたたかい、子犬の息のような風を感じて俺は目を開けた。ふせた顔をのせていた腕も、服も、テーブルも、フローリングの床も。どこもかしこもびしょぬれになっている。
テーブルの上に無造作に投げ出された原稿が目に入って、俺は思わず声をあげる。ああ、なんてこった。彼女から預かった数十枚の小説の原稿は、インクがぼやけてもはや文字かどうかすら判別できない。これはひどい。
マーブル模様の原稿を投げ出し、俺は天井を仰ぐ。
どうしてこうなった。
油染みと蜘蛛の巣にまみれた、お世辞にもきれいとは言い難い天井。安賃貸のアパート。スプリンクラーがついているなんて話聞いたこともないし、そうだったとしたってしとしとなんて降り方をする訳がない。
 俺の頬をぬらす妙にぬるいこの水滴は、まぎれもない雨なのだ。湿度が飽和状態になって、水としてにじみでてきてしまったような、そんな重さだった。
 ふいにテーブルの上に置かれたタイマーに目がいく。デジタル表示は、2分12秒を残してとまっている。
-―止まっている?
俺はいつ止めた。思案するものの覚えはない。
小鍋のほうをふりむく。ぶくぶくと泡を吐きだしていた水は、高速でシャッターを切ったかのように、泡を抱えたまま静止している。
気味が悪い。これではまるで。まるで、
いや、これ以上考えるのはよそう。これはわるい夢だ。判で押したかのような日々にへき易した俺が見せる、ただの可笑しくてわるい、ゆめ。

雨は振りつづけている。
だが見ろ、妙だ。
重たそうに床へと落下していく水滴は、徐々に速度をゆるめているように見えた。スローモーションのように、1秒が引き伸ばされていく、感覚。いまや、落ちていく水玉のひとつを目で追うことすらできる。
ひとつひとつに俺の血色の悪い顔が写りこんでいるように思えて、目が回りそうだった。狭い鳥かごのようなキッチンに、無数の俺がいる。だけどよく見ると、俺のようで俺ではない。
気が狂いそうだ。
突然、電話が鳴った。
静かだった空間に、金切り声のようなベルの音がなりひびく。ひょいと液晶をのぞくと、彼女の名前。
おそらく、原稿のチェックはまだ終わらないのかとの催促だろう。残念だ。原稿は原因不明の雨で消えてしまった。だが、適当にそれらしい言い訳を考えればいい話だ。
幸いなことに、冒頭の数ページは読んである。出だしはこうだったか。
「世界は本当はずっと夜だ。」
ぼっ、と暴力的な音がして、コンロに目を向け椅子から転げ落ちそうになった。
真っ赤な炎が、天井近くまで伸びてごうごうとさらに成長している。卵が入っているはずの小鍋はぐにゃりと曲がり、かつて卵だったであろう黒い塊が炎の中で上ったり下がったりしていた。
いや、おかしいだろう。コンロの炎ごときで鍋が溶けるものか。今こそスプリンクラーがあれば良かったと望んだことはない。雨はすっかり空で止まってしまい、その役目を期待できそうにはない。
炎は細長く天井へ舌を伸ばし、ちろちろとなめながら踊りつづける。部屋の温度は急上昇する。湿度と相まって煮えてしまいそうだ。
そして、電話が鳴り続けていたことに今更気づく。俺は、夢遊病者のような手つきで受話器を取った。
「もしもし」
「せせせせせせせせせ。せかいはほんとうはずっとよ。よよよよよ。よ、るだ。ほんとう、は、せかい、よよずっと、せかい、せせ、か、よるよるよる」
俺はあまりの恐怖に受話器を取り落とす。
パリン、と薄氷の割れるようなミスマッチな音がして、受話器はばらばらになった。白い小さな破片だけが、水溜まりの中に散らばっている。
初めて聞いた声だった。
詳しく言うならば、初めて聞いた、音だった。
例えるなら、クラゲが水中の中で泡をぼこぼこ吐きながら無理に発声した、みたいな。ああ、意味がわからないな。腹が減って低血糖なのかもしれない。
ゆで卵はまだなのか。

なんの前触れもなく、キッチンの扉が開く。
深いみどりのワンピースを着た彼女が、ずかずかと入り込んでくる。ほうけた顔の俺を一瞥して、コンロの火をカチリと消した。魔法でも使ったかのように炎も消える。
そうか、火をつけっぱなしだったのだ。消せばよかったんだな。
彼女は眉を釣りあげて、ストッキングを履いた足で俺のすねを蹴りつける。
「何やってるのよ。死にたいの?」
死にたいとはなんだ。俺はただ、
「ゆで卵を作っていただけだ」
「なんで電話を切ったりしたのよ」
「狂ったクラゲが話し始めたもんだから」
彼女は深くため息をつく。額に手を当て、頭を小さく振る。俺は、自分が悪者になったかのような気分になる。
そんなはずはない。俺は、腹の虫を黙らせたいだけなのだ。
「さっき、気象庁から発表があった。夜が明けるらしいわ。信じられない。おそろしい!早く逃げなくては、人類は滅亡する」
「どこに逃げるの」
彼女の発言の9割は理解できなかったが、俺は相づちを打つ。気になることがあってテーブルを見ると、原稿からあふれたインクでテーブルは真っ黒だった。ぽたぽたと、床に滴って新たな模様を作っている。
「ばかね。シェルターよ。」
「は?」
彼女はあきれたとばかりに白目をむく。それから、キッチンの隅に置いてある古びた電子レンジをがこん、と開けた。
「ここよ。シェルター。」
どういうことだ。ジョークか?そうだジョークだ。彼女はたまにこういうふざけたことを真顔で言ってのけることがある。
電子レンジには、彼女1人はおろか、頭だって入らないに違いない。
「で、いつ夜が明けるの」
「自分で確認しなさいよ。……あと1分と3秒」
彼女は自分の手の中を見ながらそういう。何気なくのぞきこんでみる。
「俺のキッチンタイマーだぜ、それ」
「終末時計よ、何言ってるの」
「そっちこそ何言ってんだ。ゆで卵のタイマーだよそれは。卵は黒焦げだけどな」
コンロの方をふりむく。石のような卵が2つ、鍋の中で沈黙している。石のような。いや。よく見ると石じゃないか、あれは。
岩石のようにも見えるそれは、どう見てもたまごとは程遠い。かりに黒焦げな卵だとしてもだ。
「あんたこそ何言ってるのよ。ほら!あと30秒切ったわ!早くシェルターに!」
彼女は慌てふためいてレンジに突進する。止めるまもなく扉の開いたレンジに激突し、その瞬間煙のように彼女の姿は消えてなくなった。
床に落ちたタイマーに目をやる。
あと10秒。
夜が明けたらなにがどうなるって言うんだ。
あと9秒。
だいたい毎日朝は来てるじゃないか。
あと8秒。
朝……?朝ってなんだっけ。一日のくぎりを朝というんだったか。
あと7秒。
すると俺は、もしかするとほんとうの朝とやらを経験したことがない?
あと6秒。
そんなばかな。いや、しかし。ただ明るくなるだけであって、夜は、ヨル?ヨルってなんだ!?
あと5秒。
朝なんて無いじゃないか!よく考えたら、朝は夜で、ひるもよるもよるだ!世界はずっとよるで、
あと4秒。
ひかりがいちどでも照ったことはあったか?いやない!
あと3秒。
朝が来れば人類は死ぬ!やばい、逃げなければ!
あと2秒。
シェルター!どこだ!ちくしょう!
あと1秒……


ピピピピ…ピピピピ…

お湯の吹きこぼれる音がする。白くまっさらなひかりがカーテンの隙間からこぼれる。
立ち上がって火を消す。どうやら、沸騰してから火を弱めるのを忘れたらしい。火事にならなくて良かった。
タイマーを止める。
卵を流水にさらし、おおきなあくびをひとつ。
ああ、新しい朝だ。
ぴかぴかの、あさ、だ。

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