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父の家

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先日、私ではなく妹が父に用事があって、一緒に父の家に行った。

両親は離婚していて、父と母は疎遠になっている。
一般的な離婚した家庭よりは近いのかもしれないけれど、それでも相当遠くにいる。妹は父との距離を含め、どちらかというと母に近い性格をしていると私は思っているし、実際そうだと思う。

父に用事があっても、妹も母も、一度私を介入しないとうまく連絡をとれていない。


実家が引っ越すことになった。
母方の祖父が亡くなって4年、なんだかんだと母たちとの共同生活を「拒んできた」祖母が、とうとう一緒に住みたいと家を探し始めた。私はうつ病で仕事を休んで実家にいた。今のタイミングで同居人や家が変わるって、なんの療養にもならんだろうがと内心腹は立っていたけれど、木造の古い一軒家に祖母が1人で生活しているのは私も不安だった。

母は、私たちに金銭や日程の相談を、一切しなかった。

引っ越すことは私にとってもなんとなく他人事で、片づけをし始めるのにも本当に時間がかかった。自分でもびっくりするくらい、かかった。それくらい、相談をされなかった。されなかったけれど、寸前になってインターネット契約がうまくいかないとだけ相談をされた。私は仙台に遊びに行って居たのに、引っ越しは明後日なのに、心が飛び出るんじゃないかと思うくらい溜息をついた。これだけ隠してきて、これだけひっ迫して、何を、今更。

母は、父とうまく連絡が取れない。

ネットに詳しいのは父だった。
私は父と仲が良くて、普通に話せるだけで、ネットに詳しいわけではない。なんなら意味が分からない。プロバイダーってなんやねん。開設工事ってなんやねん。家のWi-Fi持っていかれへん理由はなんやねん。そんなレベルなのに、「ネットのこと、頼んでいい?」と母は言った。よくねえよ。

よくなかったけど、ネットは私や妹にとって命綱だったので、仕方なく受け入れた。

父に、連絡をした。
助けてくれと、まっすぐに連絡をした。おかん何言うてるかわからんねんけど、から始まって、順を追って、電話ではなく文章で。

父は、丁寧だった。

母からなんとなくネットで困ってるとは聞いていたけれど、引っ越すとは聞いていなかった、と、いつもの無機質な「、」と「。」しかつかない文章でサラっとえらいことを言った。私は母に対して「あのやろう」と心根で思った。悲しかったのだと思う。父だって、家族なのに。私にとって、唯一無二の、父親なのに。

引っ越し先のマンションにコレとコレの回線は入っているんだと説明をして、私があーだこーだと調べてきたことを、客観的に私からの情報を見た後にさらに自分で検索までしてくれた。父と「これでいいか」と決めるまで、やりとりはなかなか長く続いた。

私はほとんど半ギレでやっていたので語尾は強かったと思うし、気を抜くと母や妹の愚痴を言っていた。自分たちの家なのになんで私が、と言っていた。本当なら、休職してなきゃここにいないんだぞ私は!と、今現在私も住んでいる癖に偉そうに言っていた。


父は言う。

「頼れる永和ちゃん、がんばって。」


母に「頼んだわ」と言われたときは腹が立ったのに、父に言われるとうれしくて涙が出た。こんな言葉では済まないなと思いながら「ありがとう」と言った。頼れるのは私ではなく父だったのに、それを家族のだれに説明しても何にも響かなくて悲しかった。悲しいから、これ以上言わないことにした。


そんなやり取りから数週間して、妹の用事のために父の家に行った。

父の家は、私たちが昔住んでいた家だ。

4人から1人になったから、もちろん物は減っている。エアコンもソファももちろん新しいものに変わっている。配置も一人暮らしがしやすいようにこじんまりとしている。部屋ばかりが無駄に多くて広くてさみしい。

小さなころ、自分一人では開けられなかった、無駄に重い玄関の扉を開ける。
父が待っている。妹が「ヤッホー」と言う。父は「ういー」と言う。

玄関に入れば、おかしなことに4人で住んでいたころと同じ匂いがした。

私たちの写真が、玄関に飾ったままになっていた。


リビングに入る。
入って最初に目に入る壁。4人で暮らしていた頃に貼っていた写真たちが、貼られたままになっている。前からずっとそのまんま。結婚式の写真も、私たちの七五三の写真も、仲良しのお友達と遊んだ時の写真も、全部そのまんま。光に焼けて、色が褪せて、なんだかそれが余計に孤独を感じさせて、私は目を逸らしてしまった。

父の部屋に、私たちがまだたくさんいた。

無愛想な父。
自分から「遊びにおいで」と言えない父。
家族写真を捨てられない父。
トイレの前の廊下も、私たちの部屋も、私たちがそのまま残っている。
猫にボロボロにされたカーテンもそのまんま。


先日、祖母から「あなたのお父さんね、ずっと年賀状くれてるんよ」と言われた。離婚した相手の実家に?とはじめは少し引いたけれど、どうやら祖母から送ったらしい。申し訳なかったとの気持ちを込めて。父はそれに律儀に返事をしていた。別れたはずの母の実家に、毎年。

「娘たちを、いつもありがとうございます。」と、一言添えて。


妹から父へのお願いはCDのダビングで、父は丁寧にジャケットまでコピーしてくれていた。「あーちょっと曲がっちゃった」とか言いながら。普段よりちょっと話しながら。お茶を貰いにキッチンへ行く。一人暮らしには不要な4つずつのお皿たちが何種類もそのまんま。私が母にプレゼントしたはずのグラスも、なぜかこの家にそのまんま、置きっぱなし。

ダビングが終わって、夕飯を食べた。
睡眠不足の妹が、帰宅時間まで眠る。


夕飯の片づけをする。
父は納豆のパックも洗って捨てるし、辛いラーメンは水でゆすいで食べる。この日は王将を宅配してもらっただけだった。私はゴミをシンクに運ぶ。この時点ですでに私は笑っている。我が家ならそのまま入ってた袋に捨てますけどね、と笑っている。ラーメンの汁を流す。父が「あ!そのまま流したな」と笑う。具も何にもないのに、とよく見ると、汁物は排水溝に流す前に、すべて小さなこし器に通していた。私は手をたたいて、腹を抱えて大笑いをする。「まじで貧乏性」とゲラゲラ笑うと、父は「生活が丁寧って言うて」と笑った。ちなみにその他のゴミたちは、私たちの帰宅後に父が丁寧に洗ってからゴミ箱に入るのだ。


テレビでたまたま私の大好きな映画「検察側の罪人」がやっていたので、私と父は二人でそれを黙って見た。

何にも、聞いてこないのだなと、思った。

私が鬱病と診断されてから、父と会ったのは初めてだった。
きっと聞きたいことがたくさんあっただろうに、父は何も聞いてこなかった。私が開示する情報だけを聞いて「へえ」とか「そら大変や」と言うだけだった。驚くこともなかった。「ほんまに?」驚いている様子を見せることはあったけど、冗談だなってすぐに分かった。きっと調べたんだ、と、どこかで思った。

だけど別に気を使っているような様子も見せなかった。

昔から父といると妙に安心する理由がこれだった。
雑学も含め、物知りで面白い。祖母は「あなたのお父さん、寡黙でしょ」と言っていたけれど、「いやいや、ようしゃべるよ」と返しておいた。父は好きなものや最近知った関心ごとについてはよく話す。自慢げなわけでもなく、楽しそうに話す。

私は父に似ている。

父ほど頭はよくない(偏差値の意味ではなく、それこそ雑学的な意味で)が、母や妹からしょっちゅう「なんでそんなこと知ってんの?」と言われる。これは父の遺伝だ。父と同じ、好きなものは好きになっただけ追及する。多分あの人オタクだろ。野球オタク。あなたの娘は、アイドルとバンドと漫画のオタクになりましたよ。


父の家を出る。

この瞬間は何度体験しても慣れなくて、離婚後の引っ越し当日を思い出してしまう。
泣かないように必死になる。1年以上来ていなかったことを申し訳なく思って、「また来るね」と言った。いつもなら「おう」と軽く返される返事が、この時ばかりは「うん、また来てくれ」と心がこもっていて、目の前がボヤっとした。

私はその日の夜、父に「ありがとう」と連絡を入れた。父は「また来てくだちい。」と送ってきた。

検察側の罪人を見ながら、そういえばGANTZの話をしていた。二宮和也と吉高由里子。ここがそろうと出てくるよね。妹が「GANTZ!!!」と大声を張り上げる二宮くんの真似をする。父が「とくちょう、『よわい』」と言う。私と妹は手をたたいて笑った。なんでそんなこと覚えてんのよ、と言った。一番最後のターゲット、多恵ちゃんの特徴。私が「すきなもの、『くろのくん』」と言ったことには2人とも「はあ?」と言っていた。そこは覚えてないんかよ。

そういう、どうでもいい、忘れてしまっていいくだらない会話。
父は本音を、そこにぽろっと置いたのなと、ほっこりとした。

ほっこりして、父の部屋を思い出して、ぼうっとした。

家族で住んでいたあの家に、父はいつまで住むんだろう。

私たちの写真や私物、作品を飾ったまま。
私たちがカレンダーに残した落書きを切り抜いて、いつでも見えるように置いたまま。
4人で使えるようにと4色セットで買ったであろうあの取り皿を残したまま。

父はいつまで、あの家で一人でいるんだろう。

あんまりにも、寂しい。

そして、そういう寂しさを、父は誰にも言わない。
もしかして何にも感じてないんじゃないのと思わせてしまうような、そういう言動をとる。私が考えすぎなのかもしれないけれど、それでもやっぱり、少し悲しい。悲しくて、寂しい。


昨日、私は、死のうと思ったのだ。

すべてが嫌になって、夜、だれにも何も告げずに家を出た。
祖母も妹も家に居たのに、私が出て行ったことに気づきもしなかった。誰からも心配の連絡がこないことで、余計に死のうと思った。誰かに話したかったけれど、その誰かが誰なのかもわからなかった。家の中はいつもよりも息が詰まるような感覚がして、いなくていいよと言われているように感じてしまった。これが勘違いであることはわかっていても、昨日の私にはそう感じられて仕方なかったのだ。

誰かといたって、孤独は変わらないのだと思った。

外を少し歩いた。ほとんどパジャマのまま、アウターを羽織っただけの服装はあまりに寒かった。たくさん人がいて、結局外でも泣けなくて、ショッピングモールでぼんやり座っていた。40分経っても誰からも何の連絡もなくて、ばかばかしくなって家路についた。

新居はマンションの10階。
家に帰ろうと思ったけれど、入りたくなくて階段から外を覗いていた。とてもきれいとは言えないけれど、大阪の田舎なだけあってまあまあ光が眩しかった。ここから落ちたら即死かなあ。考えなくていいことばかり頭をよぎった。越してきてすぐ自殺したら、クッソ迷惑だろうなと、笑ったりもした。


浮かんだのは父のことで、私はなんとなく、体を建物のほうに戻した。

私まだ、父にいろんなお礼を言ってないなあ、と思った。

もうそれはそれは、いろんなことのお礼だ。

なんとなく我が家で浮いていて、母方がやかましいだけに母方の親せきと集まった時も父だけが妙に寡黙で別格に見えた。いろんな面倒ごとだけを引き受けていた父。祖母に年賀状を送り続けるような律儀な父。ずっと父なりに気を使っているけれど、そのどれもがあまりにも人に伝わらない。頭がいいのに伝えるのは下手だし、思っていることを言うことも、上手とは言い難い。そんな父に、私は感謝を伝えきれていない。

父の娘でよかったと、言えていない。

なんだか急にそれが浮かんで、私は黙って家に帰った。
外に出る前と帰った時と、家の中は何も変化がなくて笑ってしまった。誰も気づいていない。行ってらっしゃいもお帰りも、だれからも言われない。

父はこれに、いつ慣れたんだろう。

いつも見送られて、迎えられていたあの家から、その声が消えたのに、いつ慣れたんだろう。
まだ慣れてないのかな。


大学生のころ、大学帰りの私と父がたまたま電車で出会ったことが何度かあった。

降りる駅は違ったけれど、父を見つけると私は嬉しくてすぐに駆け寄った。混んでいる車内、座れて安心したはずなのに、そんなの忘れて立ち上がって駆け寄った。
大阪の主要な電車、こんな人ごみの中で出会うなんて奇跡だと、いつもとても嬉しかった。私は父に、車内で「おかえり」と言っていた。父も「おかえり」と返事をしてくれていた。そういえばあの時、とても嬉しそうだったな。

わかりづらいけれど、父が私たちを愛してくれているのだと、最近よく実感する。

私たちがいつまでも居続けるあの家。
もっともっと、何度も足を運ぼう。
色褪せた写真から、寂しさを感じられなくなるように。

私だって、父が大好きだよと、伝わるように。

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