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「私」という曖昧な人間について①学校編


言葉にするだけ無駄かもしれない。
大体のことはそうだと思う。言葉にしたって、受けとる側がどう感じるか、どう受け取ったかですべて変わってしまうから。それでも私には言葉しか武器がないから、私は何でも言葉に起こす。それに、「でも、言葉にしないとだめだよな。」と歌ってくれたバンドが、私の春には居たからね。


生きている証拠とか、私が私として存在する証拠とか、くだらないけれどそんなものばっかり求めて生きてきてしまった。

これまでの自分の生き方を「くだらない」と括ってしまうあたりがくだらないんだって、私も一応理解はしているけれど、それでも「満場一致!最優秀!」とは思えない、クソみたいな生き方だった。今更ながらの自己紹介を含めて、私のことを書きたくなったから書いてみようと思う。私はちゃんと存在する「私」なんだって、今から自分に名前をつけてあげたいだけの自己満足。なんだか重そうな話を書く雰囲気を出しているが、振り返れば以外とくだらないことで笑っている人生だった。そしていつものように文量が多いので、気が向いたらお付き合いください。

書ききれていないことがほとんどだから、今回は、「学校編」。


1994年10月18日、大阪のクソみたいな不良の町に生まれた。
大声では言えないが、クソみたいな町である。不良と輩の町。大阪出身の人に「大阪のどこなん?」と聞かれても、なんとなくいつも言いたくなかった。誤魔化しようがない。一歩足を外へ伸ばすと別の市に出られるけれど、その市もクソ。四方をクソみたいな町に囲まれた、クソの中心地だった。私と同郷の人、ごめん。でもそうだよね?


幼稚園に入園した。私の髪を切り落とそうとするような、くだらないことをしてくる男の子はいたものの、無視していたので平和だった。大好きなお友達もいた。最後の夏、父親の都合で彼女はタイに行ってしまった。タイがどこかは分からなかったけれど、なんとなく「きっともう二度と会えないのだな」と思ったのを覚えている。ちなみに今も、あの日以来会えていない。
幼稚園の行事で、園内でキャンプをしたり、移動動物園が来たりした。どれも結構楽しかった。


小学校に入学した。
ここで「カースト制度」に出会った。
当時はそんな言葉は知らなかったし、存在したのかどうかも分からないけれど、とにかくそれにブチ当たった。幼稚園までは幼馴染みが男の子ばかりだったこともあって毎日外で遊んでいたけれど、女の子のお友達が増えてどちらかと言うと休み時間も絵を描いたりするようになった。

私が仲良くしていた男の子のことを好きになった女の子が居た。
今振り返るとあれはいじめだったんだろうけれど、その女の子からいろいろと酷いことを言われた。それから、謎に男の子への接近禁止令が出た。面倒そうだったので従った。従ってはいたけど、陰湿な嫌がらせは後を立たなかった。その女の子は途中で転校することになるのだけれど、最後にみんなにハンカチのプレゼントを渡すから、好きな色を教えてねと先生を介して言ってきたときも、私は「黄色」と言ったのに、私に渡されたのは緑色のハンカチだった。渡されただけマシだけど、「最後まで嫌な女だな」というようなことを思った。手は早かったのに、その女の子を殴ることはなく、彼女は転校していった。

そして彼女に洗脳されたのか、仲がよかったはずの彼は、彼女と同じようにくだらないことで私をバカにするようになった。女の陰湿さとはまた別の嫌な感じだった。階段を降りている途中、残り4段くらいで唐突に後ろから突き飛ばされたり、持ち物を笑われたりした。鬱憤が溜まって、小学校5年生くらいの頃に、彼の頭を水筒で思いっきりぶん殴った。


人生で最大の事件だった。
私は人を、凶器で殴った。


どう見たって私が100%悪かった。彼は頭を押さえてうずくまって泣いていた。私は「ざまあみろ」と思って家路についた。しばらくして家の電話が鳴る。あーあ、もうばれた。私は今から怒られるんだな。直感的にそう思った。そしてしっかり怒られた。「○○くん、頭いたいって、病院まで行ってる」と母は泣きながら私を怒った。悪いことをしたとは思ったけれど、母は私の主張は聞かないのだなと思った。一瞬話しかけたけれど、それを遮って「謝りにいくから、準備しなさい」と言った。

彼の母親が対応してくれた。
私の母は何度も頭を下げていた。私はそれをなんとなく見ていて、謝れなかった。頭がいたいと病院まで行った気の強かったはずのあの男は現れもしなかった。頭を下げる母にも、完全にふてくされている私にも、彼の母は笑っていった。


「お母さん、怪我もなあんにもしてないのに、痛いって騒いでるだけだから気にしないでください。
とわちゃん、ごめんね。どうせあの子がまた、とわちゃん傷つけるような酷いこと言うたんやろ。」


私はそう言われて、初めて心から謝罪をした。
「お母さん、ごめんなさい。水筒で、あの、固い水筒で、たたいっちゃった。いたかったと思う。ごめんなさい、ごめんなさい。○○にも伝えて。ごめんなさい。」

彼の母は「おっけー!伝えとくわ!ちょうどいいよ、あのアホにええ制裁やわ」と笑顔を見せた。その後、彼からの私に対する嫌がらせは完全に終わった。彼の母の言葉は息子を思うには少し冷たいようにも思うけれど、たぶん彼の悪事を見抜いて言っていたんだろうなと、大人になった今は思う。


中学に上がった。
これはゴミ。まじでカス。
いやもうこんな言葉ばっかりで申し訳ないけれど、最低最悪の学校だった。先生じゃなくて生徒が。同級生が。いじめ、暴力、タバコ。それが日常茶飯事だった。授業中に椅子が空を舞う。昼休みに消火器が撒かれて教室から一切出ないよう、校内放送が流れる。アホが吸ったタバコのせいで火災報知器が発動して全員で避難させられる。授業中にボールが飛んできて窓ガラスが割れる。生徒に殴られて血を流す教員が普通にいる。なんですかここは。

そしてそんな中学で、私はしっかりいじめにあっていた。

ノートがなくなるのは日常茶飯事。昼食を食べていたら後ろの窓ガラスが意図的に割られる(私の食事にガラス片が入るように、あわよくばそれで怪我をするように)。ちなみになくなったノートは発見するとビリビリに破られていたので、犯人の頭にお見舞いしたし、窓ガラスを割った男の子の拳は掴んでガラス片に突き立てた。こういう行動が私へのいじめをさらに悪化させるのだけれど、我慢ができなかった。
トイレに行こうと歩いていれば、自分よりずっと体の大きな男の子に蹴っ飛ばされて数メートル廊下を転がされる。トイレについても水をかけられる。体操服の入った袋でぶん殴られる。黒板消しが飛んできて頭や制服が汚れる。外に出てもマクドナルドの2階からケチャップを掛けられたこともあった。真っ白な夏のセーラー服だった。殴られる、蹴られる、掛けられる、取られる、投げられる。なんか思い付くことは全部された。ね、ゴミでカスでしょ。

家族には内緒だった。
だけど妹だけは、私の目付きが変わっていくこととか、私の言葉や態度が刺々しいことに敏感に気づいていて、「当時のとわは世界一怖かった」と未だに言っている。実に申し訳なかったが、いじめてくるのはいつだって私より体と交遊関係の大きなスクールカーストトップの人間ばかりだったから、言葉や態度でしか戦えなかった。人生で一番性格悪かった自信ある。まあこの時のおかげで、私は誰にも口喧嘩なら負けたことがない、という功績を持っている。あんまり、嬉しくはない。

夕食を外に食べに行こうと家族に言われたとき、私は同級生に会うのがどうしても嫌だった。
中学生までの世界は狭い。家か学校、その2択だった。唯一こっちなら落ち着けるのに、外で誰かにあったらどうしよう。あいつらが夜に徘徊しているのは知っている。私は迷って「いやだ」と言って、学校あんまりうまくいってないんだよねーと冗談っぽく言った。母は苛立ったように「何、じゃあ外で誰かに会ったら殺されるとでも思ってんの?」と言った。
なんとなく人生が終わったように思った。
「じゃあ少し遠出する?」と言ってほしかっただけだった。ていうか、殺されるくらいまで思ってないといじめにならんのかよ、と思った。「おもってないよ」と返すのが限界だった。

中学の卒業式は思い出したくもないくらいダサイもので、カースト上位のアホたちがセーラー服や学ランの背中にだっっさい刺繍を入れていた。私は「笑ってはいけない」と思いながら思いっきり笑った。あんたらの中学生活、さぞ楽しかったでしょうね、こちとら怪我だらけだわ、いいおもちゃだった?と言ってやりたかった。さすがにそれこそ殺されかねんので言わなかった。


高校に入った。
クソゴミ中学から入ろうと思うと、ちょっとちゃんと勉強しないと入れない、まあそれでも学区内で言えばド真ん中くらいの偏差値の高校だった。同じ中学の出身の子もたくさん居たけれど、いじめをするような子はひとりもいない高校だった。小学校からたまに話していた友人が「とわテニス部入るやろ?」となんの話もしていないのに勝手に入部届を持ってきた。実は小学校6年間、テニススクールに通っていて、確かに久しぶりにやりたいなあと思っていた。促されるままテニス部に入った。

3年生が引退してすぐ、顧問と仲違いした2年生が全員退部した。1年生8人で残された。テニススクール6年間のあと、中学校では美術部に入っていた。鈍った感覚でテニスをしたら、初心者より下手で驚いた。部内戦で全員に負けた。一生誰にもテニスで勝てないのでは、と真剣に思った。だけど顧問は私を部長にした。
部長が下手だと見事に誰も言うことを聞かなかった。言うことは一人前の癖に実力が伴わない。

だけど、強豪校と練習試合をしたあと、自分の高校を代表して一言言ったとき、強豪校の顧問と目があった。
そのあと、顧問から「強豪校の先生がな、お前ええこと言うなあって褒めてたぞ。あの場でアレを言うとは、ありゃ強くなるぞって」と言われた。残念な脳みそなので私は自分がその時なんて挨拶をしたのか1ミリも覚えていないが、なんとなく「やっぱり私の言葉って、武器なのか?」と思った。それは中学時代まで抱えていた「凶器」の意味ではなく、私や周囲を鼓舞するための「力」という意味で。

学校生活自体にはあまり馴染めず、仲のいい友人はいたものの、その子がいないなら休んだり、早退や遅刻を繰り返した。テストや内申点に響かない程度に、休んでいい、かえっていい、最低限のラインを守りながら。1年生と2年生に関しては部活を理由に文化祭も体育祭も若干サボっていた。文化祭は授業の範囲だけ手伝って、体育祭は適当に走った。
嫌いな体育の先生のダンスの授業中はずっと靴紐を結んで一瞬も踊らなかったし、その先生が長距離走の授業をしたときは時間内ずっと校庭を散歩しているだけだった。嫌いな英語の先生の抜き打ちテストは、破って捨てた。中学のときの変なアレが学校生活ではモロに出ていた。でも勉強は楽しかったし、好きな先生の授業は食い入るように聞いていた。世界の広さを、知った。

2年生になって、体に染み付いた変なくせが抜け、テニスで勝てるようになった。おもしろいくらいどんどんトーナメントで優勝した。本選に進めるようになった。後輩もできていて、同期もついてくるようになった。例の強豪校の顧問に直接声を掛けられた。「お前、あん時の子よなあ。やっぱり強なったやん。」と言われた。嬉しくて「ありがとうございます」と言うまでに少し時間がかかった。余談だが、この強豪校の生徒には一度も勝てないまま、私は引退します。

3年生になった。部活を引退した。私のあと、部長をすることになった後輩が「先輩のあとで部長になるのは正直怖いです。先輩みたいにはなれないけど、近づけるように頑張ります」と真っ直ぐな目で言ってくれた。「先輩が練習の最後に言う挨拶、いっつもめっちゃやる気がでました」と手紙をくれた後輩も居た。「学生中は毎日見に来てくれますよね」と脅しのように言ってくれる後輩も居た。

そしてなによりクラスが大当たりで、「これが学生生活か」と思った。文化祭の準備も、今までは適当に流してきたのに、夏休みに集まって準備をしたりした。なぜか劇をやることになり、クラスの皆が私に脚本を頼んでくれた。全く意味が分からなかったけれど、「言葉が武器かもしれない」と思っていたから嬉しかった。「天使にラブソングを」のオマージュ。「しかも体育館争奪戦には負けてるから教室でやらなあかん」とみんなで笑った。だったら教室だからこそできることをしよう、なんて話した。

うちの高校では文化祭の最後に、「劇部門」「レク部門(お化け屋敷とか)」「食事部門」等、部門ごとに投票で順位がつくことになっていた。劇はもちろん体育館組が有利に決まっているので、うちのクラスはどちらかというと面白おかしく演じるしかなかった。
中学と違って、本来スクールカースト上位であろう女の子たちがみんなとても協力的で面白かったので、うまく観客を呼んでくれるわ、演者としても面白いわで、私たちも楽しかった。
順位の発表は校内放送で行われる。なんて平和な校内放送だろう。中学じゃあり得ないな。

私のクラスは基本的にその放送を聞いていなかった。
論外もいいところだ、教室で劇やってるのうちしかないんだぞ、と言って。しかも教室でやってるから他のクラスのほとんど見れてないし。等と言っていたら2位かなんかでクラスの名前が呼ばれた。他のクラスは自信があるからみんな静かに聞いていて、呼ばれると「やったー!」とはしゃいでいるのが廊下まで響いて居た。うちのクラスだけ、困惑の声が上がってから、歓声があがった。ちょっとだけ時差があったことを、あとから他のクラスに笑われたことは言うまでもない。明るい女の子が「とわちゃんの脚本のお陰やわー!」と私に言葉をくれる。嬉しかった。

毎年クラス替えがあったにも関わらず、私は親友と一度もクラスが離れなかった。離れなかった分、サボった数も同じで、感じたことも同じだった。3年のクラスは、楽しい。高校生活のすべてをこのクラスで過ごしたかった。なんの垣根もない。男女もカーストも。浮いている人がいない。カースト最下位のはずの私ですらそう思うのだから、きっと本当にそうだった。当時流行り始めた「LINE」を私だけは持っていなかったけれど、それも一度は誘ってくれた。ガラケーだからと断ると、「確かにな!とわちゃんが面倒ならちゃんとメールする!」と言ってくれた。そしてメールはいつも、ちゃんと届いた。

1番嬉しかったのは、私はそれなりにしっかりと勉強をしていて、成績もよくて、私のことを気に入っている先生が多いなかで、私が特定の授業でだけ不良になることを、カースト上位のはずの彼女たちがいつもゲラゲラ笑っていることだった。否定もしないで、普通に笑っている。バカにした感じじゃなくて、なんなら「もっとやれ!」だった。「運動部のくせにテニス以外壊滅的」ということがバレて、特に下手くそなバスケの授業では、私がゴール下にいてもノーマークで「ゴール下とわや!チャンスや!」まで言われたけれど、全く嫌な感じではなかったし、同じチームの子が「ミラクルだって起きる!」と言いながら私にボールをパスしてくれた。もちろんシュートはいつも決まりはしないのだけれど、一試合で必ず一度はそんな場面があった。大嫌いなバスケが、あのクラスでやる時だけ大好きだった。背泳ぎで沈んでいく私をサポートしてくれるのも彼女たちだった。不思議な感じだった。中学なら都合よく沈められたろうに。

大学を選択するに辺り、私は頑固が働いて、「ここにしかこの学問がないから」の一点張りで、偏差値のカスみたいな大学を選んだ。しかも指定校推薦で。
冷静になって今考えれば、ほかにもあるだろうと思う。しかも私は国公立大学を専攻していたし、成績もそれに伴っていたし、先生が必死で止めるのも納得がいった。当時の担任を何とか撃破するも、私が信用を置きまくっていた現代文の先生の反対はいつまでもいつまでも覆せなかった。今日書類を郵送しないと指定校に間に合わない、そんな日までまだ言い合いをしていた。いい先生だと改めて思う。たった1人の生徒の大学選択に、ここまで付き合ってくれる。当時の私にはたまらなく鬱陶しかったが。

私が「まじで間に合わんくなる」と席を立ったとき、その先生が言った。

「分かった。行ってこい。お前の選んだ道や、ちゃんと胸張って、それ出してこい」


高校を卒業した。
部活の顧問、そして現代文の先生に礼を言った。言っても言っても言い切れないだろうから、1回にした。顧問には手紙を渡した。「頑張れば夢は叶う。それをお前は体現してくれた。お前は俺の、自慢の生徒だよ」とメールをくれた。私はそれでぼろぼろと泣いた。


大学に入学した。
辺鄙とかそんな言葉で片付けられないような大学だった。偏差値も悪けりゃ立地も悪い。立地が嫌すぎて、私は実家から片道3時間半掛けて毎日通った。

大学1年の春の授業だった。
心理学の基礎を学ぶ授業。専門性なんてまずは基礎を押さえてからなので仕方ないけれど、「心理学概論」とか「総論」とかいう名前は、どうにも興味をそそられなかった。残念ながら必修です。当たり前です。
教壇に立ったのは今年で定年だと言う割に、妙に凛とした女性だった。

「みなさんは、どうして心理学科に入りましたか?」

私たちに問いかけているけれど、答えを求めているような口ぶりではない。どうしてかわからないけれど、私はその口調に妙に惹かれた。そしてなんとなく胸のうちで考える。中学時代のいじめのこと。カーストが存在したり消えたりすること。人を支配しようとする人と、そうでない人。私の非をあっけらかんと笑ってくれる人と、私の話を聞こうともしてくれなかった人。私はその人たちのことが、いや、言うなれば、自分以外の人のことが知りたかった。怖かったし痛かった。あんなのするのってあの子だからなの?環境のせいだからなの?楽しかったし嬉しかった。あんな風に笑いかけてくれるのって、あの子達だからできるの?やっぱり育って来た環境なの?だからだっけ。先生は少し笑ってからあの口調で話す。


「心理学は、人の心を暴く学問ではありません。人の心に、寄り添うための学問です。」


大学1年の春だった。
私はそのときに聞いたこの言葉が忘れられずに、今も生きている。
そして同時に、現代文の先生が「お前の選んだ道や」と言ってくれたことを思い出した。
ドラマみたいだけど、本当に思い出した。
私の選んだ道は、「人の心に寄り添うこと」なんだと、思った春だった。


大学生活も4年間もあるので、本当にいろんなことがあった。偏差値が低くてもいじめは起きなかったし、救えないような頭の悪い人(勉強の意味で)がほとんどだったけど、みんな明るくておもしろかった。みんなが支えあっていた。多少のいざこざやカーストはあったけれど、それでも全部かわいいものだった。誰彼構わず挨拶をする人って本当にいるんだなあと思った。ゼミでバーベキューをしたり、サークルをつくってテニスをしたりした。その同期と揉めたり、後輩に迷惑をかけたりもした。それでも全部、いい感じにくだらなくてどうでもいい、笑い話だ。

臨時で来てくれている先生に面白い人がいた。その先生はジブリの映画を心理学的に分析して説明してくれた。いつも「そんな見方してたの?」と疑いたくなる面白い分析を話してくれる。悪く言えばひねくれているが、「人の心に寄り添うこと」を人生の道に選んだ人って、本当に面白いんだなと実感した。そしてその大変面白い授業の割に、レポートが毎度鬼のように難しいのもよかった。しかも手書き。心理学者っぽいわ~と思った。字の書き方や大きさでも分析されている。彼は非言語が得意だった。

50人近くがとっている人気の心理の授業を私も取っていたけれど、教授と直接話をしたことはなかった。
この人もまた独特な授業をしていた。心理学の曖昧さを、とことん曖昧に伝えてくる。いやはや、これこそ「こちら側に委ねられているな」「受け取り手次第じゃん」と毎度思っていた。そして毎回、授業の感想レポートを書いて授業は終わる。とことん曖昧だから分析をしたくなる、分析したことを書いてみる。別に返答はない。その教授に、ある日突然、言われたことがある。
当時、警察官を目指していた私に向かってたった一言。


「なんだ、とわさんはてっきり、心理の道に残ると思ってたけどねえ」


ほとんどはじめての会話だった。誰かと間違えていませんかと思わず聞き返した。教授は「失礼な!合ってるよ。とわさんの感想レポート見てて思っただけだよ」と笑った。それでも私が警察官を選ぶならそれはそれでおもろそうだねと言った。また曖昧だ。結局何が言いたかったんだ、とその瞬間は思ったけれど、「人の心に寄り添うこと」という言葉がまた過る。心理の道。心理学を活かせる、道。

いい加減長いです。
私は結局、警察官ではない仕事に就いた。きちんと心理職と呼ばれる仕事だ。本当に言い方が悪くて申し訳ないが、警察官の採用試験の100倍は勉強した。ド滑り込みだったし、一応合格者名簿には乗ってるけど、これは普通に来年受け直した方がいいのでは、という説が出るくらいの下位合格だった。それでも奇跡的に採用の電話が来た。嬉しくて、電話を受けた場所、つまり天王寺のご飯屋さんが密集している、人通りの多いところで大声でワンワン泣いた。
この教授にもその職に就くと報告したけれど、反応は「そうなんだ、いいじゃん」だった。あんたが言った一言、結構作用してるんですけどねえ…と思ったけれど言わなかった。あとあの人、授業を履修し終えた私のこと、うろ覚えだったぞ、たぶん。

そしてこの時期、俗に言う「キャリアカウンセリング」的な立ち位置の先生たちが動き始める。いろんな高校に行って指定校やらの手続きを出したり、ともかく来年度入学してくれる生徒を探しに動く。その時にキャリアの先生から聞かされた。

「現代文のあの先生、とわのこと気にしてたよ。元気にしてます、相変わらず専門家の俺らには何の進路相談もなく、この職業に就くことになりましたけど、って伝えといた」

全く勝手なことを、と思ったが、卒業して4年経っても、あの喧嘩の日々と「お前の選んだ道」を気にしてくれているのだなと嬉しかった。「先生はなんて?」と聞くと、キャリアの先生は「安心してはったよ、めちゃくちゃ嬉しそうやった。あの先生、あんな優しい顔できるんやなぁ」と笑った。私は目に涙が溜まるのを、堪えていた。


先述した通りいい加減長いので、そろそろ終わろうと思う。
いざ書いてみるといろいろ思い出して思わず書いてしまった。もはやどこが自己紹介なのか分からない。私の歴史を書き記しただけだ。省略に省略を重ねているけれど、私の武器が言葉になった理由や、私の道がココになった理由は少し明確なったような気がする。


忘れかけていた大切な思い出や言葉たち。
私はずっと名前がほしくて、誰かの特別に、誰かのヒーローになりたかった。
だけど私には私がなくて、無意味な孤独や不安に苛まれている。
これはきっとこの先も続くんだろうけれど、これだけ思い出して書けるんだから、私だって私としてちゃんと生きていけばいいよって、ちょっと元気な日の私から、元気のない日の私へのメッセージ、ということで。


最後まで読んじゃった変わり者の貴方、どうもありがとう。
そんな貴方たちのおかげで、だましだましでも、私は生きているんだと思います。

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