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孤独の上澄みを分け合いたい

とっくに記念日を通り越してしまったが、うつ病と診断がおりて1年が経った。

私の心の壊れ方というか、病名がついた経緯については別の記事に書いているので割愛する。今、あれから1年が経って、どんな状態で、日々何を思っているのかだけ書いてみようと思う。

2021年の8月8日に、精神科に駆け込んだ。
医者は私にうつ病の診断を下した。
うつ病と診断がおりるのは想定の範囲内だった。

私はずっと希死念慮と隣り合って生きてきて、それが顕著に現れただけだった。半年近く休職をして、正直無理をしたまま2022年の1月に職場に復帰した。

好きではない同僚(といっても大先輩である)から前日にメールが届く。「とわさんとまた一緒に働けると思うと嬉しくて、思わず送ってしまいました。」と書かれていた。申し訳ないがとても呆れていた。私はあなたのそういうところにずっと違和感を持っているんだと思ったけれど、ありがたい、明日の復帰挨拶の際には盛り上げるなどしてくれ、と返信をした。その程度には回復していた。

復帰の挨拶をするのは心底億劫で、仕事自体は好きだったし戻りたいと思っていたけれど、そう思っているのは自分だけかもしれないという不安は計り知れなかった。実際、私の挨拶を丁寧に聞いていた人なんてあの場にいたのだろうか。仲のいい後輩とは部署が違うから朝礼も別だ。出勤したとき、少しだけ「おかえり」という雰囲気を出してくれたのは、どちらかというと後輩がいる方の部署だった。ありがたかった。

無理にでも1月に復帰したのは、転勤の発表があるからだった。

可能性は低くても、私も転勤できるかもしれない。
外に異動できなくても、内部では動けるかもしれない。もちろんどちらもなかったので、私は昨年度と同じ部署で働くことになるのだが、そのかすかな希望を身を持って感じたかった。

私は一切の異動はなく、むしろ「なんでその人を?」と思う人達が出ていったり部署が変わったりした。

私は今の職場のやり方が気に入らず、基幹部署を少し見下しているように思う。
私がいた頃の、いや、正確には私が尊敬できる人々があの部署にいた頃の、最高に良かった基幹部署を知ってしまっているから、あとは落ちるだけだとわかっている。頭では理解していても、「なんだ、来年も1年、こんな状態でいくんだ。」と絶望した。私は基幹部署に戻りたいと思う反面、こんな状態ならごめんだなとずっと思っていた。

案の定という言い方はひどいと思うが、どこの部署よりも人間を取っていった割に、やっぱり基幹部署は機能しなかった。
私は多分それが心底不愉快だった。とにかく不愉快だった。大人の事情なんて私はどうでもいいのだ。自分がその部署にいないこととか、嫌いな人が基幹部署にいるとか、そんなことはどうでもいい。どの部署も職場として成り立つためには重要な部署だから。

それでも、意味がない。基幹部署が機能しないならば、他の部署がどれだけたくましくても、なんの意味もない。


3部署が隣接するフロアの一番端の席で、私の心情はどんどんと荒れていった。

私の仕事は対人援助職で、ここまで書けばもう確定するだろうが、基幹部署が対象者と重に接することになる。私たちはサポート役で、たまに現れて最低限の申請書類の記載を促したり、少しだけ世間話をしたりする程度の役だ。

私は本当に時たま、対象者と話をした。

話をすると言っても、そんなに踏み込んだことはもちろん話さない。ラポールもできていないだろうし、対象者にも踏み込まれたくないことがあるだろうから。私にだってあるように。万が一それを踏んで爆発させてしまったとき、私はどうにもしてやれないから。

本当になんの気のない世間話をしたり、なんの内容もない食事の話をしたり、大半はその程度。申請関係のことで少し込み入った話をすることもないわけではないが、それも基幹部署と連携を取った上、つまるところ自己判断だけで話すことはまずなかった。


それでも対象者たちは、なぜか口を揃えて私と話がしたいと言っていた。

私はその都度「相手間違ってるよ」と伝えた。基幹部署の人に話をするように伝えた。私でなくてもいい話は私以外に伝えればいいと言った。そして「話がしたい」と言われたことを、特に誰にも報告しなかった。面倒だから。私が対象者を「操っている」などと言い出しそうな人が基幹部署にはいたからだ。

その人が、メールを送ってきた人だからだ。

基幹部署の人たちには「担当」というのがつく。対象者の担当である。その担当者本人が私と対象者の面接を依頼してきても、そのメールを送ってきた彼女にほぼ止められた。それも遠回しに止められた。私は知っている。この人が「操る」タイプであること、私とは異なるタイプであること、支援の方法が私とは違うこと。

それを、本人が気づいていないこと。

おそらく私は彼女に「対象者を操っている」と思われている。
人間は操り人形ではない。どれだけ支援をしたって、それを受けるか受けないかを選択するのは対象者本人だと私は思っている。だから私は比較的直球勝負で、遠回りはしない。思ったことを感じた情動に乗せて、少しだけ言葉を柔らかくして、伝える。それで失敗したこともたくさんあるし、成功したこともたくさんある。向こうが直球で来るなら私だって直球を投げる。変化球を投げるのは私には難しいことだし、変化球を受け取るのは対象者にとっても難しいことのほうが多いから。私だって人間なんだと、繰り返し伝える。何を言ってもいいと思わないでくれと伝える。

彼女の言葉は変化球が多く、私ですら「本質は何が言いたかったんだろう」とよく思っていた。
面接を止められるときの常套句は「とわさんは、対象者がほしい言葉がわかってしまう人だから。それで対象者がそちらとラポールを築くと困るから。」

さいですか。

何が困るのかよくわからなかった。
そちらがラポールを形成できないだけの話を、私のやり方に被せてきて、なんとなく私のせいのような言い方をした。もう面倒なので「そうですか」と聞き流し、私は誰とも面接をしなくなった。対象者から求められても、私は話はできないし、基幹部署の職員に言って、とまた繰り返した。これのほうが基幹部署との溝ができそうだけど、と心根で思っていたし、実際に対象者の言動として露呈していた。報告してないけど。それでも彼女は変わらなかった。


私が生きづらいのは、他者の言動の意図やその下に隠された感情を正確に受け取ってしまうからだと思っている。

この生きづらさに希望をくれたのが、この仕事だった。

俗に言う「運命数」なんかにもそれは顕著に現れているが、実際生活していてもそう思う。ゲームだって漫画だってドラマだって移入しすぎる。だからこそ彼女の言う通り、対象者が欲しがっている言葉は嫌というほどわかっている。すべて、もらさず。一挙手一投足、なにも、見逃さず。嘘をついていること、その場しのぎのサインであること。心から喜んでいること、少し不安を感じていること、相当落ち込んでいること。どれだけ隠してもわかる。だからカマをかけて、「なんで分かるの」と言われた時点でラポールの完成だ。


邪魔だなと思っていたこの機能が、初めて私に生きる意味をくれた気がした。

異動がなかった。
仲のいい同期は基幹部署へ引き抜かれ、不安爆発の部署になった。昨年度から引き続くのは私と心理士の2人だけ。2人で「まずいな」と言っていた。本当に何度言ったかわからないくらい言っていた。残念ながら私は今の部署の仕事ができる方ではない。人間には向き不向きがある。同じ職なのにこうもちがうのかと昨年度までは笑っていたが、笑っていられない状態になった。その上彼女からのアレもある。

4月。
新たに上司と幹部がやってきた。
連携を取るのが難しかった。穏やかな心理士が眉をひそめることもあった。心理士は私よりいくつか年上だけど、私がタメ口で話してしまっても、心理士のミスを「なにやってんだよ!」と冗談っぽく言っても、引継ぎの書き方が独特すぎて読み取れず、電話して叩き起こしても怒らない人だった。私と心理士がしょっちゅう言い合いしているのを前からいる幹部がよく笑っていた。その穏やかな人が眉をひそめることが増えた。短気な私はもっと眉をひそめていた。

5月。
悪夢を見る頻度が明らかに増えた。
かわいい悪夢ではない。生死をさまようもの、書き出したら売れる本になるんじゃないかと思うような長編大作もの、パスワードを見つけるまで目が覚めないと分かっているもの、スマートフォンのロックを解除しないと目が覚めないと分かっているもの。殺す殺されは当たり前。フィルム映画を20本くらい見ることも当たり前。転生パロもあったし、信用している人に裏切られ殺される夢も見た。寝た気にならないまま仕事に行った。丸6年、一切なかったのに寝坊をするようになった。まずいと思った。

6月。
幻聴が聞こえるようになった。最悪だ。
最初は本当に物音だと思っていたけれど、徐々に違うことに気がついた。耳鳴りはずっと続いていたから、それの延長かと思っていたけれど、それともやっぱり違っていた。一番多いのは無意味な足音、それから大下手なファンファーレ。せめて上手だったらと何度思ったかわからない。ひどいときは人の声。何を仰ってるか聞き取ることはできず、そもそも日本語かどうかも怪しかった。内容が聞き取れなくても、なんとなく不満を言われていることは分かった。最悪だ。

7月。
医者からドクターストップが降りた。
正確には6月の半ばに降りた。それを私は無理に封じ込めていた。今休んだら余計にメンタルが病むんだとか、中途半端に対象者のことを放り投げた自分を攻めてしまうとか、そんなことを言った。幻覚はなかったし、幻聴とも適当に付き合っていた。昼休みに食事が喉を通らなくても、ただ机に突っ伏しているだけになっても、どうかもう少し待ってくれと懇願した。
医者は6月半ばの時点で1度折れ、その代わり月2回来るように言った。
そして7月初旬の診察で最終通告を受けた。

「それ以上、働いちゃだめだ」と言われた。

私の医者はそれこそ温厚で、私の話をよく聞いてくれる。薬の処方のためだけとは思えず、半分くらいカウンセリングが入っていると思う。それだけ丁寧に話をしてくれる医者だった。前回の休職も、合間合間の延期も、私が踏み出せないのを汲み取った上で優しい言葉で延期を推してくれた。

その医者が「もうだめ」と言った。

私も、その瞬間、何も言い返せなかった。
少し考えて「かたをつけてくるから、2週間だけ時間をください」と言った。医者は一瞬考えたけれどOKを出してくれた。


私は職場に戻って、直属の幹部からトップまでほぼすべての幹部と面接をした。
確定のドクターストップがでたこと、6月中から本当はもう働ける状態ではなかったこと。薬はこんなものを飲んでいて、寝坊をしたときはたいていこの薬のせいであること。こんな悪夢を見ていて、こんな症状があること。仕事を、休みたくはないこと。

前回の休職は、精神科に駆け込んだその日に打たれたものだったので、なんの前準備もできなかったけれど、今回は信じられないほど速やかにいろんな手続きが水面下で、着々と進んでいった。私はそれが虚しい反面、スッキリもしていた。心理士にもこっそり伝えた。私は7月中にいなくなるから、どうかあとは頼みました、と。

仲のいい後輩や心理士、幹部、こっそり伝えていた大半が口を揃えて言った「体が一番だから休んでね」の言葉に、私は安堵しながら悔しさを感じていた。情けない自分に涙が出そうだった。私がいてもいなくても職場は変わらない。分かっていても情けなかった。心理士はよく「とわさんがいないと困るよ」と言葉にしてくれていた。それをあえて封印しているんだと「分かって」しまった。申し訳なかった。

だけど直属の幹部だけが面と向かって「とわさんがいなくなるのは痛い。どうすればいいかわからないくらい困るよ」と言った。

建前でないことも「分かって」しまった。
だから私は気がついたら泣いていた。泣きながら「もう二度と戻ってこれないかもしれない」と言った。幹部は「待ってる」とだけ返答した。だからまた泣いた。根拠もないのに本気で言っている。有り難かった。

同期の1人も、「またね」と最終日に言ってくれた。うれしかった。

体重は10キロ減り、BMIも4減った。
耳鳴りも幻聴も悪夢もいまだに続いている。
悪夢が怖くてなかなか寝付けないから、「強制体終了薬」と勝手に名付けている統合失調症用の薬を服用し始めたけれど、それでもまだ悪夢を見ている。
私は一時的にとはいえ、生きていてもいいかもしれないと思った空間と離れている。
もちろんあのままあそこにいたらそれこそおかしくなっていたと自分で分かっているが、それでも今の生活はぼんやり日々を流しているだけで、変な気分だった。

薬を飲んでいるからお酒も飲めない。
私の仕事には当直があるけれど、鬱になってから免除されている。
いつかあの頃みたいに、普通に当直ができるまで回復する日なんて来るのだろうか。
当たり前にみんなとお酒を飲める日なんて、来るのだろうか。
異常にやせ細った体が、またきちんともとに戻る日なんて、来るのだろうか。

こういう不安に陥ると、たいてい幻聴が耳元で、ヘッドフォンのようにひっついてごにょごにょと言ってくるのだ。うるせえ。何が言いたいかは何となく分かる。お前の思考まで読みたくないわ。

診断名をつけるのが怖くて逃げ回った27年間のおかげで、反動があまりにも大きい。
良くなる未来どころか、元通りになる未来が見えない。
医者からはとうとう入院先リストをもらった。入院を勧められたわけではないけれど、暗にその方法もあると示された。自分でも今の状態がいいとは思っていないけれど、入院したらもう戻ってこれないんじゃないだろうか。

そしたら私は、一体何者になるんだろう。

ただでさえ空っぽの私は、一体、何になるんだろう。


うつ病と診断を受けて1年が経った。
私は今、一体、何者なんだろうか。
何と戦って、なんのために息をしているんだろうか。
そんなことを思いながら、私は日々を消化している。

まとまらない文章が私の取り柄だから、どうかこれで許してほしい。
私の率直で、まとまらない、ただただ流れている日々の日記。

面白いから、今度は悪夢たちを細かく書いてみようと思う。今少し書いているけれど、こう、客観的に書くと面白いもんだな。




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