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療養型病院にコロナ専門病棟を開設!ハードな交渉を乗り越えて【09】沖縄県D病院

この連載は、コロナ専門病棟を開設した10の病院の悪戦苦闘を、スタッフの声とともに紹介していくものである。連載一覧はこちら

株式会社ユカリアでは、全国の病院の経営サポートをしており、コロナ禍では民間病院のコロナ専門病棟開設に取り組んできた。

今回は、沖縄県D病院のスタッフ3名に、院内クラスター発生から収束までの怒涛の1ヶ月を中心に話を聞いた。

事務長 S.Nさん|後方から支える戦い方

新型コロナは対岸の火だと思っていた。ところが、あっという間に沖縄県は全国でも感染割合の高い県になっていた。そんな中、D病院で6名の感染者が出たことで、事態は急転した。

私は感染者が出ても「県立病院に転院すれば大丈夫」と考えていました。ところが「自院で見てください」と言われて。「えぇっ」としか声が出せませんでした。

ちょうど県内の3つの病院でクラスターが起こり、県立病院も満床。どこにも受け入れ先がなかった。6名の患者さんの感染を確認してからは、毎日感染者が確認されました。院内もどんどん暗くなっていきました。もう、何から対応したらいいのかが分からない。

最終的にはスタッフ16名、入院患者21名の院内クラスターまで拡大していました。

夜勤スタッフの確保もできないほど、人手は不足し、病棟は麻痺寸前だった。DMAT(災害派遣医療チーム )、自衛隊、県外の応援ナースが到着。それぞれが奮闘する日々が続いた。

私は医療人ではないので、治療に追われる現場でできることはないと思っていました。

でも、応援で来てくださっていた認定看護師の方に、「防護服を着て病棟にいる看護師たちはとにかく暑い。飲み物や氷を準備しておいて」「休憩したり眠れる場所を整えてあげて」と声をかけられました。
私は休憩室を整えたり、現場で必要な物品の発注を全て請け負いました。

「後ろから支えてあげてください」と言われたことに、ハッとしました。それが私の役割だ!」と思いました。

病院でクラスターが起こると、新聞でもテレビでも連日「病院は何をしているんだ」と言われた。スタッフが子どもを保育所に預けられなかったり、地域を回るコミュニティバスの乗客に、「D病院前のバス停には止めないでくれ」と言われたこともあった。

新聞社から毎日「今日は何人陽性者が?」と電話がかかってきていました。ホームページに掲載していても、かかってくる。「この人たちはいったい何を知りたいんだろう」と思うようになりました。

「あなたたちは何を聞きたいの?応援しているの?病院をいじめたいの?」と聞くと、「そうではない」と言うんです。それなら私たちを助けてほしいと伝えました。

病院の現状と、誹謗中傷を受けていることを話すと、記事にして伝えてくれました。少し、気持ちが軽くなりました。

D病院はクラスター発生時から、今後の病棟運営について協議をしていた。「コロナ専門病棟を開設して、受け入れ体制を作ろう」。理事長の決断を受けて、ユカリアの西村さんと経営サポートマネージャーのT.Sさんと、行政交渉を担った。

「療養病床だったD病院で本当に診られるの?」という空気が伝わってくるんですよね。

寝たきりや、介護を必要とする患者さんの受け入れなら、うちしかないだろうと思っていました。でも、県の担当者は半信半疑なんです。

「私たちは新型コロナで痛い目にあった。県立の急性期だけでは対応できなくなると予想して、受け入れを提案しているだけ」「D病院では診られないと判断するのであれば、きっぱりと断ってください」と伝えました。そうすると「ちょっと待ってください、考えさせてください」と、また振り出しに。

県庁に何度も足を運びました。協議は毎回平行線。感情的になってしまうことも度々。西村さんが怒れば私がなだめて、私が怒れば西村さんがなだめる。いつも穏やかなT.Sさんも、憤って、声を荒げる場面もありました。

本当にしんどい交渉でしたが、一緒に戦ってくれる仲間がいる心強さを感じていました。

数ヶ月の交渉を経て、コロナ専門病棟の運用が始まった。「有事に強い病院にする」という理事長の強い決意と、看護部長、看護師長のサポートで、院内はまとまっていった。受け入れ要請の波はあるものの、「依頼先があることに救われている」と感謝の声を何度も受け取った。

「療養病床から専門病棟の開設」。前例がないことをやる不安もありました。でも、挑戦したおかげで、104床の小さな病院が、今も、しっかりと地域に貢献できている。

私たちは「D病院にしかできないことをやっている」のだと、心から言えることを、とても誇りに思います。

看護部長 T.Nさん|たくさんの協力で乗り越えた日々

マスクの着用、手指消毒の対策を徹底しながら、院内で感染者が発生した場合のシミュレーションをスタッフと始めた頃。体調不良で休んでいたスタッフの感染が判明。あっという間に陽性者が増えていった。

怒涛の日々でした。対応は後手後手になるばかりで、準備不足を痛感しました。

シミュレーションをしていても、実際に感染が確認されると、患者さんやスタッフに迷惑をかけている状況を、なんとかしのぎきらなければ・・・という気持ちしかありませんでした。

できる限りのゾーニングや感染対策をし、患者さんのご家族に連絡を入れながら、転院先を探していました。ところが、「転院はできないから、そちらで診てくれ」と言われました。

その時、私たちが踏ん張るしかないんだと、覚悟を決めました。

感染症認定看護師が到着し、一緒に院内を周って感染対策を確認した。対策の不完全さを痛感したが、今からできることを、一緒に考えてくれる人がいることに、気持ちが救われた。

「1日で完結するものではない。3日かけて仕上げましょう」と声をかけてもらい、DMATも入ってゾーニングをやり直しました。丁寧な説明で、感染症のとるべき対応が理解できました。

専門的な指導であっても、外部の方の声を素直に受け入れられないこともあります。でも今回は、有無を言わさずトップダウンの指示を徹底しました。そうしないと防げない。何よりもシビアに対応しました。

スタッフの感染者も増え、動けるスタッフの勤務状態は過酷なものだった。陰性だったスタッフも、2、3日後に発熱し陽性となることもあった。DMAT、自衛隊、県外からの派遣ナースの到着でなんとか病棟が回っていた。

鳥取、山梨、福島から派遣ナースや自衛隊の「何とかしたい」という強い意志と応援があって、私たちもなんとか踏ん張れました。それがなければ、病棟の維持は不可能でした。

最初はお互いにぎこちなさもありましたが、徐々に打ち解けて仲良くなれて。一緒に過ごした時間はあっという間でした。

近隣病院の看護部長や病棟師長が、夜勤スタッフとして駆けつけてくれたこともあった。沖縄県の看護協会も、T.Nさんの看護部長としての仕事ができるようにサポートに入った。

スタッフが足りないと、私も現場に入っていたんです。看護協会の方には「あなたは全体を監督する立場なんだから、病棟で動き回っていてはダメだよ」と、言われました。

でも、現場から要求があれば、動かないといけない。そうすると看護協会の方が「私が行くから」と言って走ってくださった。管理者としての立場、役割を勉強させてもらいました。

病棟スタッフも、私が夜勤に入ろうとすると、「私たちが時間差で上手く入りますから」と、引きとっちゃうんです。

とても幸せな場所で仕事をさせてもらっているんだなと、思わずにはいられませんでした。

クラスター収束後、専門家を招いてメンタルヘルスケアの講演を実施した。コロナ患者を診ていたスタッフとは、個別に面談をしながら気を配っていたつもりだった。

クラスター収束後、退職した1名のスタッフのことがとても気がかりでした。

私と事務長と一生懸命やったつもりですが、声が届いていないところもありました。心の整理がしきれていないスタッフには、公認心理師との個別面談を設けました。スタッフの不安や迷いが取り除けたらと思いながら、何が正解なのか、ずっと悩みながら進んでいましたね。

特に心労をかけたのは、スタッフの不満や悩みに直接関わる病棟の師長さんでした。私の使命は師長さんのサポートだと思い、フォローを心がけていますが、なかなか。まだまだ頑張りどころです。

怒涛の日々の終わりが見えた頃、「コロナ専門病棟開設」の話が。「誰が見るのだ」という気持ちもあったが、「有事に強い病院にする」という理事長の言葉に、T.Nさんの覚悟は決まった。

コロナ専門病棟は、クラスターの経験を還元できる場所だと考えました。地域医療の状況を見ても、私たちがやるしかない、みんなでやっていこうとスタッフに伝え、受け入れてもらいました。

スタッフたちが、やると決めたときのパワーはすごいんですよ。初めてのことでも、ちょっと難しいことでも、やってやれないことはない。目標に向かって全員で注力できる病院だと、私は信じていました。

現在は、県のコロナ入院調整班からT.Nさんに直接相談の連絡が入る。「全介助の患者さんなのですが・・・」という相談には「私たちの得意とする分野ですよ」と答える。「ありがとう」の声と共に、ほっとする様子が電話越しに伝わってくる。

今は、県からの要請に応えて「患者さんを引き受けられる病院」という自負を持って、日々過ごしています。

私たちが最初のクラスター発生から、今日までやってこられたのは、たくさんの人の協力があったからです。力を貸してくださったみなさんに、心から感謝しています。

一人でできることには限界がある。これからも周囲の力を素直に受け入れながら、元気にやっていきたいと思うばかりです。

ユカリア経営サポート T.Sさん|感染管理の重要さを身をもって体験

D病院でクラスターが起きたとの一報に、T.Sさんの頭をよぎったのは、いくつかのパートナー病院の実例だった。経営的な影響は? 状況を確認するため、西村さんと沖縄へ飛んだ。

「これが新型コロナの恐ろしさか」と、思いました。

現場の混乱は一目瞭然。もともと人員配置が少ない中、ゾーニングでベッド移動をしたり消毒をしたりで、全く人手が足りていない。

クラスター発生から数日で、スタッフはすでに極限に達していると、思うほどの状況でした。すぐに防護服を着て、現場に入りました。

「点滴棒を持って自分で点滴しながら仕事をするスタッフ」
「陰で泣きながらカルテを入力している看護師」
この現場の状況を見てしまったら、手伝わない選択肢はありませんでした。

新型コロナの感染現場に入るのは初めての経験だった。だが怖さはなかった。「感染するかもしれない」と一瞬思った。「感染したら、した時だ」。

本当に感染してしまったんですよ。「T.Sさんがホテル療養している時が一番大変な時期だったんだから」と、ネタにしてもらっています・・・(笑)。

その時、「防護服の着脱マニュアルは守るべき」を学びました。隙間なく装着して、脱ぐ時も順番通りにする。感染対策の重要さを、身をもって体験しました。

療養期間を終えてT.Sさんは現場復帰。クラスター収束後のコロナ専門病棟開設に向けて、動き出した。「療養病床から一般病床へ転換すれば、重点医療機関として認可する」。クラスター発生当初、県の職員からはそう聞いていた。ところが・・・。

D病院は、陽性患者の搬送ができない状況をすでに経験していましたし、自院で対応した慢性期病院は他にもありました。そんな状況があったのに、認可が下りなかったのです。何度問い合わせても、「ルールですから」という回答が続きました。

「ひとまず、これまで通り患者を受け入れておいて、コロナ患者の受け入れが必要になったら、病床を調整してください」とも言われました。

感情的になって、「そんなばかげた提案がありますか!療養病床の入院患者を1日で移動できると思っているんですか?!」と、くってかかったこともありました。D病院の平均在院日数と患者の流れを知っていたら、現実的でないこともわかるはずなのに・・・。

もどかしさと、憤りを覚えました。それでも「地域医療を守りたい」という思いを、訴え続けました。

地域医療を守るために、D病院の運営を守るためにも交渉を諦めるわけにはいかなかった。粘り強い交渉を終え、専門病棟としての運用が始まった。

すでにコロナ専門病棟の運用をしていた埼玉県のA病院、京都府のB病院から、マニュアルや情報共有の仕方、会議の頻度など全て教えてもらっていたので、院内の準備はスムーズでした。

全部ゼロベースから考えていたら、もっと大事になっていたでしょうね。クラスター発生当初も、A病院、B病院は、不足する医療資材を大量に送ってくれたんです。

「大変なのは最初だけですよ」「一緒に乗り越えましょう」
医療資材と一緒に、メッセージを色紙に書いて送ってくれました。その言葉に泣いているスタッフもいました。

ユカリアのパートナーシップの強さ、横の繋がりに何度も助けられ、励まされる日々でした。

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次回は、精神科病院における新型コロナの対策と対応の難しさを、北海道E病院の事例を基にお伝えします。

編集協力/コルクラボギルド(文・栗原京子、編集・頼母木俊輔)/イラスト・こしのりょう