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私の転職騒動記: 国際機関編(前編)

一言に転職といっても千差万別&十人十色。ここでは自分の経験を交えつつ、攻め/キャリア・アップと守り/キャリア・ダウンという切り口から転職を語ってみたい。

題材は、新型コロナ危機を挟んで行った3回の転職を経験。この一連の騒動を、前編、中編、後編の3記事でまとめる。

今回の記事の題材は、日本の企業からパリにある某国際機関へ転職した際のお話。なお、中編はパリにある国際機関から他の国際機関への2回目の転職を、後編はその国際機関から現職(在欧州の某企業)への転職を扱う予定(多分)。


1. 国際機関へ赴任するきっかけ

当時、日本の大企業というぬるま湯に浸かって仕事をしていた私は、国際公務員という学生の頃の夢を捨てきれずにいた。齢30半ば。

国際機関
国際機関イメージ図(出典:関西学院

職場の同僚には言わなかったが、毎年密かにJPO(Junior Professional Officer)というものに応募していた。日本人を国際機関に送り込む外務省の制度で、純ジャパで国際機関目指す人の登竜門のひとつ。

応募といってもそんな必死こいて前のめりにやっていたわけではない。ただ、応募しておかないと、後で後悔しそうで怖かった。自分の夢にケリをつけるためにも、JPO制度の応募年齢制限である38歳(当時)まで取りあえず記念受験しておこう、そういう考えだった。

外務省のJPO派遣制度
外務省のJPO派遣制度

ある日、外務省から一通のメールが届く。いつも一次選考(外務省による申請者の評価)は突破できていたのだが、二次選考(国際機関側から受け入れてもらう)で落ちていた。私のような産業界の技術畑(私自身は文系だが)にドップリ浸かった人間は、どの国際機関にとっても使いづらいのだろう。なので今回も、受け入れてくれる国際機関が見つかりませんでした的連絡かなと思っていた。

しかしその外務省のメールを開いてビックリ。私の受け入れに興味があるといっている国際機関(於:パリ)があるというのだ。半信半疑だったが取りあえずその部署を調べると、私の専門分野にあまり関係のないことをやっている部署。正直微妙、というのが正直な感想。あまり興味もわかないので断ろうかと思ったが、ここで断ったらあとで後悔するんじゃないかと思い直し、取りあえず面接だけは受けてみることに。

面接の相手は、ウェルカムコールのあった部署の女課長。職務内容の説明の後、あなたのプロフィールはとても素敵、ぜひこの部署で働いてみて、と嘘っぽい綺麗事を並べ立てたような言い回し。国際機関の事情を知らない当時の私は、そんなに来てほしいならこの話乗ってみてもいいかもと思ってしまい、妻とも相談した上でオファーを受けることに。

当時30台後半、転職も難しくなってくる年齢。最後の攻め/キャリアアップの転職なる気がしていた。長らく目指していた国際公務員についに手が届くという興奮と、仕事はつまらなさそうだなあという不安が入り交じった感情を抱えながら、承諾メールを送信、そこから長い赴任プロセスが始まった。

国際機関の様子

そこから数ヵ月は渡航の準備や当時の職場への退職手続き、国際引っ越し作業とてんやわんや。面倒過ぎて、新しい職場に赴任する前から軽く後悔し始めていた時、外務省のJPO担当者様から連絡が入る。赤坂の某会館で赴任前事前研修なるものを実施するとのこと。そこでJPOとはなんぞやから始まり、先輩JPOの貴重なお話や、赴任中の注意事項(割愛)等を学ぶらしい。

研修当日、私と同様JPOに選ばれた同僚に初対面。大手コンサル経験者、大学研究者、医者に薬剤師、JICA専門家にNGOと、皆揃いも揃って超優秀そうなオーラをビシバシ漂わせている。出身大学も東大京大あるいは帰国子女ばかりで立派な経歴をお持ち。何よりも皆、目が輝いていた。私のような大企業ぬくぬくサラリーマンは一人もいない。

研修会場

研修から数ヵ月後、3月末日(金)に以前の職場を退職。挨拶を済ませさっさと早退し帰宅した。軽く食事を済ませ、スーツケースを手に、猫も連れて妻と共に成田空港へ出発、その日の夕方の便でフランスへと旅立った。

2. 国際公務員という幻想と現実

3月末日(金)に前職を退職し、その日の内にフランスへ旅立った妻と私と猫一匹。まず何より先にやらないといけないことは住居確保含めた生活環境の立ち上げで、これはJPOの苦労話としては定番。

我々の場合はじめの一ヶ月、Air B&Bの小さな部屋に滞在しながら住居探しを行ったが難航、すったもんだの上何とかパリ郊外のマンションの2LDKを確保(詳細割愛)。

国際機関での勤務は渡仏数日後に開始。しかし驚きの連続だった。数年以上経過した今、私の中では全て思い出話として消化したが、まだ笑い話にはなっていない。色々あったが、機微なこともは伏せつつ、差し当たりない範囲で四点に絞った。

第一に赴任先部署の女課長との面談で私の経験が必要との話だったが、いざ赴任してみるとなんのことはない、部署の一年先輩の元女弁護士の単なるサポート役で、関係者とのアポ取り、ネットニュースのまとめ、文書の日英訳等のしょうもない仕事だった。

どうも聞いて回った情報によると、増え続ける仕事量に対して予算/人が足りておらず、そこでJPOがほしいと手を上げたらしかった。国際機関側からすれば、日本の外務省が全てを負担するJPOは、非常にうまい話なのだという。最低限の用件を満たしていれば誰でもいいからきてほしいといったところだ。面接時の課長の心の底が透けて見えた。こういった場所ではあまり人の言うことを鵜呑みにするのはリスキーなことを学んだ。

第二に、赴任先の部署の予算が不安定だった。国際機関の予算はどこも、加盟国政府から支払われるいわゆるサブスクの基本料金のような拠出金と追加課金に相当する任意拠出金(voluntary contribution)がある。職員の給料を含むこの部署の予算は主に任意拠出金から構成、次から次へと任意拠出金を確保し続けないと職がなくなってしまう。そして上述のように予算はカツカツで人を増やせずJPOという半ば裏技的な手段に出たのがこの部署の現状だった。

第三に繋がるが、これはJPOにとってはよい話ではない。JPO契約(外務省が金を払う期間)は原則2年、その間に次のポストを用意してもらわなければならないが、部署に予算がなければ話にならない。そもそももう人を雇う予算がないからJPOを取ってる時点で負け戦になりそうな予感がした。

第四で最後だが、私のデスクが置いてなかった。その日その日で空いている席を確認して適当に使えとのこと。部署の古株は無論デスク、というか個室あり。私と短期コンサルは、デスク探し回れとのことで構内のカフェテリアで仕事をすることも(数ヵ月後にデスクをもらえたが、もう勤務終了間際でほぼ意味なし)。

ということで、要は、専門性が問われる世界のはずなのに雑務をやらされており、キャリアとしていえばマイナス、そもそも赴任先部署に金はなさそう、このままこの部署にいたらJPO契約終了と共に首切られて終わり、ということと私は解釈。ここにいても未来なし、代替戦略が必要だった。

3.次の一手

そこで私は新たな「攻め」の転職をすることにする。JPO契約終了を待たずして、パリ界隈の国際機関の空席に応募しまくった。今度は私の専門に合致するやつがメイン。と同時に外務省にもそういった動きをしていることを念のため一報。後は他の日本人職員に話を聞きに行ったりもした。

こういった動きは、同時部署で勤務開始してから一週間後には少しづつ同時並行的に開始していた。そういった地道な活動の結果どうなったかは、その時の心情等も踏まえつつ、また次回、中編でお話ししたい。

※続きはこちら

なお、国際機関のお仕事に興味を持ったきっかけは下記から


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