ステルスピリオド
私は生理のタブー視をなくし、だれもが自己実現をできる社会にするために活動する自称アクティビストだ。
今回は生理のタブー視をなくすということを少し再考する機会を設けるために、noteを書いている。
そもそも生理のタブー視はあるのか。この問いに対する応答は、生理を体験したことがある人たちの語りからも明らかだ。水泳の授業のときに、生理だから休むとは言わずに「腹痛があるから」と伝えたり、ナプキンをトイレまで持っていく中で、他の人に生理だとバレないようにポーチの中にしまう。これまでの活動を通しても、生理は隠すべきものとして社会が私たち(生理のある人達)に押し付けてきたことが明らかである。
いくつかの文献を参照すると、タブー視は平安時代の「血穢」という概念につながっていると考えられている。そのような概念が、今の時代にも残っており、生理だと口に出せなくなり、問題がひた隠しにされてきたのだろう。
このように身体が、社会的、文化的な風習によって、抑圧されてきたという歴史は、たしかに「隠されてきた」と表現することができるだろう。しかし、身体の主権を社会に預けてきた歴史のみを取り上げるのではなく、私たちが積極的に隠してきた(本当は隠さずを得なかった)と、語りなおすこともフェミニズムの歴史として、必要な過程なのではないだろうか。
以下、二元論的な語りになってしまうのをゆるしてほしい。
歴史的に振り返ると、女性は男性社会に対して「進出した」という歴史がある。その中で、女性は男性と同じように働くことが社会的に求められていた。女性はある意味で「男性化」しなくてはならず、その上で生理は大きな障害だった。そこで、生理を隠すことで、「男性化」し、社会を欺いていたのだ。
「ステルスピリオド(stealth period)」
私は歴史的に、女性が権利を勝ち取るために、生理を隠すことで社会を欺いていたと言いたい。そのために、ステルスピリオドという言葉を提唱したい。生理中であっても生理ではないようにふるまう、生理のある人達の努力を、「抑圧」として語るのではなく、「欺き」「抵抗」として語りなおす言説があってもいいのではないか。
それでもやはり、生理があることで、余計な努力を強いられる社会には、異議を申し続けたい。その過程で、生理を語らない選択を取っている人たちのことも尊重することは大切だ。
そして、加えて、社会的に男性として生きていたり、女性性を取り除いている生理のある人たちは、常にステルスピリオドである。「生理の感じ」を身体の印象から取り除いている。それは社会において現在進行形で起こっていることである。(それを「パス」と表現することができるかもしれない。)
改めて強調したいのは、
生理は隠されていたのかもしれないが、そこには少なからず、<生理のない社会>に対して生理があることを隠す主体性(ステルスピリオド)があったはずだ。私たちは改めてその主体性を自らの言葉で語りなおす必要があるのだ。
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