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自己紹介

今日は自己紹介してみようと思います。
人の投稿を見たりすると一番上に固定されてる!どうするのか分からないけど挑戦してみます!

長くなりますがお付き合いいただければ嬉しいです。(私、基本長文読まないタイプですw)

ピンクレディーが解散発表した年、幼稚園の先輩である山口百恵がマイクを置いた年、1980年に横浜で生まれました。横浜育ち。三姉妹の真ん中

幼少の頃から周りの空気を読んで動く、先生の言うとおりに動くいわゆるおりこうさんタイプ

とても内向的で人見知り

おりこうさんしていたからか幼稚園の送辞を読んでほしいとのオファーをもらったけど断固拒否!人前に立って注目を浴びるなどもってのほか。今でもそこは変わりません。

父がバレーボールの監督だったので、なんとなくの流れで姉に引き続き小・中とバレーボールをやっていました。母は若い頃からソフトボールをやっていて、周りからはよくスポーツ家族と言われていました。(バレー:父姉私、ソフト:母妹)

高校では初めて知ったハンドボール部に入り、部活に学校行事に遊びにたまにバイトに明け暮れる日々。嗚呼青春。タイムマシンに乗って過去に戻れるなら絶対高校に戻る!(やり直したい訳ではなくね)

そして高校3年(かな?)にウチの家計では当時行かせるのは大変だったであろう予備校に通わせてもらっていたにも関わらず、試験も受けず推薦で入れる安全パイを選んで入学。入試で失敗することを恐れていたただのチキン

大学では英米文学を専攻していました。大して興味があったわけでもなくただ英語に触れていたかっただけ。この辺までは何の違和感も感じず敷かれたレールの上を走っていたイメージがあります。

大学2年生の夏にUCLAのサマープログラムに参加しました。大学の姉妹校がカナダにあるので、ほとんどのお友達はそれに参加していました。でも「みんなと一緒に行くなんてやだ」っていう感じで、自力で参加できるプログラムを探し、感熱紙時代のFAXでやり取りし、申し込んで参加しました。そこではほとんど英語は上達しなかったものの楽しい寮生活を送っていました。

戻ってきたらなんか大学がつまらないと感じて、大学3年から編入したいなーっていう程度の軽い気持ちで近くの編入受け付けている大学を受験しましたが見事に落ちました

中高の英語教師の資格と共に大学を卒業。

就職活動もスーツを着て通学するお友達を横目に「みんなと同じことはやりたくない」と思っていました。大学卒業後、「この英語力で英語の先生なんて無理でしょ?」と思って、海外を視野に入れ始め、ワーホリという選択肢が浮かぶ。

卒論のテーマが「日本の英語教育とオーストラリアの日本語教育の比較」。オーストラリアにしたのは、単純に検索したら日本語教育が盛んというのを知ったからです。

日本語教師のアシスタントとしてワーホリを決めました。行き先は偶然にもオーストラリア、ゴールドコースト。聞こえはかっこいいのかもしれないけど、ただ日本語の授業に行き、教室の後ろに座ってることがほとんどでした。一度お好み焼きを作るデモンストレーションしたくらいかな。

2003年年末。バイトの貼り紙をケバブ屋の店頭で見つけてしばらくその辺でうろちょろしたあげく「えいっ!」と勇気を出し、年末にバイトゲット。隣のイタリアンレストランで働いていて、私のボスとすごく仲が良くて、よく顔を出していた彼と恋に落ち、ボスと友達と4人でシェアハウスに引越、アルバイト学生、ブリスベンに引越、結婚、出産×2、永住権取得

当時帰省を年に一度ほどしていましたが、子供も大きくなりコストがかかるので(まだ航空券が一人10万円してた頃)、がっつり日本に住んじゃう?ってことで必要な家具を倉庫に入れて、2年日本で暮らしました。東日本大震災の時も横浜にいました。

こっちに帰ってきて子供たちが小学校入学、学校でのボランティアをしながら専業主婦。2017年、ボランティアからパートに格が上がる!

時は過ぎ2年弱の別居を経て、離婚申請。(オーストラリアは1年以上の別居が離婚申請の条件になっています)今年(2020年)に入って離婚成立

現在は、中学生の息子と娘と3人で暮らしています。

週に3、4日のパートをしながらオンラインで自分が興味がある、応援したい、関わりたいをベースに会社やプロジェクトに関わらせていただいてます。


あぁ長かった。

ここまでお付き合いいただいた皆さまありがとうございます。私だったら読まないかもしれないww



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