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日記 【人生を変えた2人の香港人、2人目】

こんばんは。

私が人生を変えた2人目の香港人に出会ったのは、コミュニティ・カレッジでの1人目との出会いから数年後だった。

私は、コミュニティ・カレッジの経済学初歩の期末テストの後は成績がぐんと良くなった。多分自分はやっても無理だという思い込みが取れたからだろう。苦手な授業はあったが、なんとか良い平均成績を保った。

だが、2年制であるコミュニティ・カレッジでは卒業せずに、一旦勉強を終えて日本に戻り、4年生大学に転校する事にした。

約1年後に無事に希望の4年生大学の2年生の後半に転校出来た。そして、この大学で過ごした最後の年にこの私の人生を変えた面白い香港人に出会った。

パートタイムで働いているアメリカ人が殆どだったコミュニティ・カレッジと違って、4年生の私立大学では殆どがフルタイムの学生で、裕福な家庭の人も多かった。特に、留学生に至っては日本人以外は大金持ちばかりだった。

私が留学していた頃は円高だったので、日本人にとっては日本で大学に行くのとそれ程変わらない金額だった。しかし、ドルに対して為替が弱い国から留学するのはかなりのお金持ちで無ければ無理だったからだ。

彼も例外に漏れず、香港のホテル王の孫で大金持ちだった。私は転校した年は学校の寮に、そして1年経ってからはルームメイト達と一緒にぼろアパートに暮らしていたが、彼は高級マンションに住んでいた。

彼は「僕のおじいちゃんは、何人も愛人が居て、僕のお婆ちゃんもその1人なの。だから、おじいちゃんは孫が凄く沢山居るんだよ。親戚の集まりに行くと、余りに人が多くて、挨拶をしてもおじいちゃんも僕が誰だか良くわかってないみたい。でもおじいちゃんからホテルを貰って僕の名義で一つ持ってるよ」と言っていた。面白くて人懐っこいので友達になった。

その頃、次の学期に後4つの科目の単位を取れば卒業可能だとわかっていた。そしてその時点で母親から、もうこれ以上は学費を払わないから次の学期を最後にして日本に戻って来る様にと言われた。

私の希望では、出来れば更にその次の学期まで授業を取りたいと思っていた。その理由は、卒業に必須な単位以外に、もう2つ経済学関連の授業を受ければ、経済学が第2専攻(第1専攻のメジャーに対し、マイナーと呼ばれる)として学歴に残るからだ。しかし、両親からの送金が止まればそれは無理な話だ。

アメリカの大学では、1学期に4つの科目を取るのが普通だ。私の大学の修学規則では特別な理由があれば5つ迄は科目を取る事も出来たが、その分勉強が大変で良い成績を保持するのが難しくなる。

なので、経済学も第2専攻で卒業したかったけれど諦める事をその時私のクラスメートだったその香港人に話した。すると、彼は私にこう言った。「僕も次のセミスター(学期)に6つの科目を受けたいと思ってたんだ。大学の学部に一緒に手紙を書いてみようよ。やってみないと結果はわからないじゃん!」

香港人のお友達が居る人はわかると思うが、これは典型的な香港人の反応だ。日本人は、お上(学校も含めて)が決めるルールは絶対で、その時の私の様にそれを変えられるとは考えないで何もしないで大人しく諦めるのが普通だと思う。

ところが、私が知る香港人は、出来ない、無理だ、禁止されてる、とかは置いておいてどうやったらそれが出来るかと考えて実際不可能を可能にしてしまう人が多い。私が凄いと感じている香港人特徴の一つだ。

私の香港人クラスメートの考えの柔軟さに驚かされたが、彼の一緒にやってみようという言葉に勇気をもらった。私は、何故6つの科目を取りたくて、自分にはどうやってそれが出来るのか学部に対して懇願する手紙を書いた。彼も手紙を書いて、2人で別々に提出した。

すると、なんとあっさりと2人とも特例でOKが出たのだ。日本の大学ではこうはいかないかもしれないが、流石答えは一つでは無く何事もどれだけ論点を説得出来るかにかかっているアメリカの大学だ。今ではどうだか知らないが。

ということで、1学期に6クラスも取って、それはそれは勉強が大変で、平均成績も結構下がってしまった。しかし、私は無事に経済学を第2専攻で大学を卒業する事が出来た。それも嬉しかったがそれ以上に、諦める前にどうやって不可能を可能にするかと考えて実行する事を教えてくれた彼にとても感謝している。

残念な事に、その時もやはりまだFacebookも個人メールも無く、実は彼の名前さえも覚えていないので、連絡を取れていない。でも、彼の所持する香港のホテルはどれだったんだろう。まだ香港にあるのかな、とたまに思い出して考える。彼は私を覚えているか判らないが、今に彼を探してみたいと思っている。

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