カウンセリングを受けてみた(中編)
初めてのカウンセリングを受けてから10年近くが経っていた。当時の勤務先を辞め、転職先も辞め、無職の身だった。海辺の街に暮らし、風に吹かれ、日々を過ごした。
無職になるのは、これまでに何度もあった。不安や恐怖は、昔ほどではない。なるようになれという図太さを身につけてしまった。しかし、こんな時に限って、「なぜ自分(だけ)はこうなのか」ということが頭をもたげるのであった。
今が良い機会かもしれない。私はインターネットで最寄りでカウンセリングを受けられるところを探した。前回のこともあるので、大きな期待はしない。適切なカウンセリングをカウンセリングする機能も存在しないので、勘で飛び込むしかない。
私が求めていたのは、精神分析だった。自分のことは自分が一番よく知っていると信じながらこの有様であれば、自分は自分を知らないのではないか。自分の中で何が起こっているのか(起こっていたのか)、外部から正確に指摘してもらい、その上でこれからの道筋をサポートしてもらおう。
そのためには時間もかかるだろう。ということは、金もかかる。上手くいこうがいくまいが、20万円ぐらい注ぎ込む決心をした。無職にとっては相当な大金である。しかし、もともとどうなってもいい身なのだから、前向きなギャンブルとして投資しよう。
適当な検索で見つけたのは、精神科医が営む小さなクリニックだった。電車で30分ほどの郊外にあり、医療機関ということも信頼性が高い。電話をして予約をとった。1時間当たり5千円ぐらいだったと記憶する。
担当は、40代ぐらいの女性だった。医師ではなく、カウンセラーである。現在仕事をしていないこと、働いても辞めてしまうこと、その根源が子ども時代にあると思っていること、過去に決着をつけなければこれからもないと感じることを話した。
カウンセラーは、一番初めの記憶から私の話を聞き、記録した。その時どう感じたか、といったことを誘導して訊いてくる。所見らしきことは一切述べない。毎週のように私は通い、前回の続きから自分史を話す。
丹念に話を聴き、分析をしてくれている。こういうカウンセリングを求めていたのだと感じた。
数カ月が過ぎた。私は遠い土地で仕事が決まり、引っ越すことになった。カウンセラーに、これまでの総括を求めた。しかし、「まだカウンセリングの途中であり、何もない」と言われた。
10回以上、通っている。物心ついた頃からこれまでについてのあらましを語り続けてきた。それに対して何もないはないのではないか。両親に対する怒りや憎しみ、悔しさを吐露してきたではないか。そう言うと、カウンセラーは驚いたように言った。「憎しみを持つ人が、そんな冷静に話せるわけがありません。もっと怒りを爆発させるはずです」。
まったく納得がいかなかった。「あなたはただ何カ月も話を聴いただけではないですか」。カウンセラーは言った。「どうして仕事が続かないのかというのが依頼だった。カウンセリングはそこまで行きついていません」。
「いや、最初から過去についての精神分析にもとづいたカウンセリングをお願いしたはずです」。私はそう食い下がったが、後は押し問答だった。「わかりました。私が引っ越す先でカウンセリングを引き継げる方を紹介してください」。そう言うと、「このような仕事はどこに行ってもそうそうなく、引き継ぎは出来ません」とカウンセラーは言った。
こうしてカウンセリングは終了した。詐欺やぼったくりバーの類ではないか。私は強い怒りを感じた。しかしこの時も、ギャンブルと承知の上で来場したのではなかったのか、と自らに言い聞かせるのだった。
分析か治療か。分析にもとづく治療か。分析なき治療か、治療なき分析か。クライアントとカウンセラーは、最初に理解を共有してから始めなければならないのだろう。両者ともに、いろんな類の人がいるのだから。
懲りずに約10年ぶりのカウンセリングを受けてみたのは、臨床心理学というものに希望を見出していたからだった。他に何があっただろうか。自己克服と自然治癒は、長年試みてきた。海外に出ることで視座を変えることも試みた。忙しさや社会に淫して紛らわそうともした。過去をなかったことにすることさえ、試みたのである。
最も敬遠したのは、スピリチュアリティへの傾倒だった。子どもの頃に心が壊れてしまった一因は、母から受けた信仰の強制だった。その解決のためにスピリチュアリティを用いれば、元の木阿弥ではないか。母は現実の苦しみのさなかに信仰と出会い、あっという間に飲み込まれたのだった。
スピリチュアリティは本来、とても素晴らしいものである。現代においてはなおさらだろう。しかし近年、その言葉もろともずいぶんと汚されてしまった。数あるスピリチュアリティから本能的に、または理性的に、我がスピリチュアリティを選択し、体得し、自らも周りも幸せになることは難しい。
だから、ちゃんとした教育と訓練、経験を伴ったカウンセリングに頼るのである。しかし、カウンセリングとスピリチュアリティには共通項がある。それは、言葉である。
信憑性をもたせるために言葉を濫用し、人は言葉に操られてきた。母は聖典に書かれている言葉を唯一絶対とし、父は反対の言葉を罵り、足りなくてぶん殴った。
座禅を組み続け、悟りを説く禅宗でさえ、言葉の氾濫である。スピリチュアリティを伝えるために言葉を必要とした時点で拡がりは限定され、正しいことを証明するために、さらに言えば自らを証明するために繰り出す道具に、言葉は堕ちてしまう。
カウンセリングも人間と人間がやっていることを鑑みれば、言葉なのである。
それなりの金と時間を費やし、またもやカウンセリングは失意のうちに終わった。