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温泉街のこたつライター

源泉かけ流しの温泉が好きだ。山奥に突如現れる秘湯も好きだし、海水と混ざり合う岩場の露天も好きだ。つげ義春の温泉紀行が好きだ。そして、自由な若者のカルチャーが勃興している湯の街が好きなのだ。

温泉好きは、おそらく血行が良くないことに起因する。医者にそう言われたわけではないが、採血するときに看護師が針を抜いて刺しなおすほど血管が浮き出てこなくて、つまりは血管が細いのだろう。湯に浸かるとどぅわっと血が巡り、生きている実感に襲われるのである。

温泉街には定宿があった。リノベーションで改装されたゲストハウスで、清潔、かつ安い。Booking.com のセールでドミトリーが1,800円前後になっていたので、私は予約した。前泊は森の中にテントを張り一泊、翌日の夕方に温泉街に着いた。

しかしドアは閉まっており、インターフォンを押しても返答はない。困っていると中から女性が現れてドアを開けた。スタッフではなく宿泊客だという。私は彼女からスタッフの携帯番号を教えてもらい、電話すると他の職場にいて不在にしていたという。このアバウトさも地方の良さなのである。チェックインする時間をあらためて確認して、私は街に出てひと風呂浴びた。

宿に戻り、チェックインしてまた街に繰り出す。赤提灯に火が灯っている。入る居酒屋はもう決めてある。地の酒と肴を楽しみ、もずくのかき揚げを食す。二軒目でもしたたかに飲み、締めの飯を食い、宿に戻るともうスタッフはいないので暗証番号を押してドアを開け、本棚のじゃりン子チエを前回泊まった時の続きから読み、二段ベッドのライトを消して眠りにつくのであった。

翌朝、ラウンジには昨日ドアを内側から開けてくれた女性客がいた。30代前半ぐらいで、窓際のカウンターでパソコンを開いている。私はコーヒーを淹れたカップ片手にあらためて礼を言った。朝早くから忙しそうですね。私が言うと、彼女は答えた。私はこたつライターなんです。

こたつライター?私はその言葉を知らなかった。

炬燵記事こたつきじ
独自の調査や取材を行わず、テレビ番組やSNS上の情報などのみで構成される記事。
【補説】主に、閲覧者数を増やす目的で作成されるインターネット上の記事についていう。自宅で、こたつに入ったままでも作成できるということからの名。

デジタル大辞泉より

なるほど。説明を聞いて、私も日ごろ目にしているようなネット記事を書いていることが分かった。彼女は早朝からすでに数本書き終えていた。東京の広告代理店を辞めて実家に戻り、隣町のゲストハウスに宿泊しながらエンタメ記事を書いている。ここなら親に気兼ねもせず、Wi-Fi 環境も整い、温泉にも入れる。

彼女は仕事の手を休めて私との雑談に付き合った。最近読んだ本の話から、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」の池田香代子の新訳について、サン・セバスチャンと巡礼の道からパウロ・コエーリョ「アルケミスト」「11分間」の感想にまで及び、彼女の類まれな知性と見識に触れることになった。

また上京して仕事を探すんです。そう彼女は言った。もう少し話をしたかったのだが、彼女はこたつ記事を量産しなければならない。スピードが命なのだ。近くのスタバに移って書き続けるという。邪魔をしてはいけないので、キーボックスに鍵を入れてゲストハウスを後にした。

モーニングを出す喫茶店に入る。おそらくは移住したアーティストであろう若夫婦が営んでいる。トースト、スクランブルエッグ、ウィンナー、サラダ。書棚の本を読みふける。「FLAT HOUSE LIFE」(アラタ・クールハンド著)。

こたつライターという言葉にはネガティブな響きがある。百も承知で彼女は自嘲的にこたつライターを名乗っているのであり、そこには矜持があった。きっと、こう言うだろう。いろいろあって東京を出たけれど、また道が拓けるその日まで、私は今を生き抜きます。

温かい朝食で一息ついてから温泉に浸かり、南インド風のスパイスカレーを食べた。手で食べてもいいですか。店主に聞くともちろんと頷いて、フィンガーボウルを出してくれた。温泉で拡張された血管に、南の熱い成分が流れ込んだ。

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